下田開国博物館は、幕末の開港に伴う資料1000点が展示されている。
了仙寺(日蓮宗)は寛永12年(1635)に、二代目下田奉行である今村正長により建立された。
「嘉永7年(1854)3月の日米和親条約により下田が開港されると、ペリー艦隊が下田に入港し、軍楽隊を含む約300人の水兵が了仙寺まで行進した。ペリー提督と幕府全権林大学頭との間で和親条約の細則についての交渉が行われ、同年5月に下田条約(日米和親条約付録13カ条)が調印された。この条約によりアメリカ人の7里以内遊歩権が保障された。」(※)
横穴遺跡の洞窟は、今から約1300~1400年程前、古墳時代に墓として利用されていたと考えられており、洞窟内より人骨とともに勾玉や水晶製の切子玉等の玉類が出土している。
「日米和親条約の締結を知ったロシア使節のプチャーチンは、嘉永7年(1854)11月にデイアナ号に乗って下田へ入港し、福泉寺で幕府と和親条約締結の交渉にはいった。プチャーチンは幕府との交渉を進め、安政2年(1855)2月、長楽寺で日露和親条約(日露通好条約)の調印が行われた。これによって国境が定まり、択捉島と得撫島の間に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫島以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居ほ認めることになった。」(※)
嘉永7年(1854)3月、ペリー艦隊が下田に上陸し、300人の部下を引き連れ了仙寺まで行進した、石倉やなまこ壁の町並みが残る風情のある川沿いの道である。
旧澤村邸は、「なまこ壁」と「伊豆石」という、下田の特徴的な建築様式を用いた建造物である。旧下田ドック創業者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年(1915)に建築された。
平成20年(2008)、澤村紀一郎氏により寄贈を受け、耐震補強等の整備を行った後、来遊客の休息・案内施設として平成24年(2012)4月より一般公開を行っている。
ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地である。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた。ペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。
日米友好の灯は平成15年(2003)7月、日米交流の発端となるペリー来航150周年の節目を祝う第20回ニューポート黒船祭のおり、「NEW!! わかふじ国体」の炬火リレーに使用するために採火されたものである。