ゆかりの地
天保元年(1830)8月4日、 吉田松陰は長州藩主・杉百合之助の次男として萩城下に生まれた。本名、杉大次郎。6歳の時に叔父で山鹿流兵法の師範であった吉田大助の養子になるが、翌年、義父が死去したことから吉田の家督を相続し、吉田大次郎と改名した。
嘉永7年(1854)3月18日、ペリー艦隊を追って下田に到着した吉田松陰、金子重輔は役人の目を逃れるため、それぞれ瓜中万二、市木公太と名を変えて岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
弁天島は、嘉永7年(1854)3月27日夜、吉田松陰が金子重輔とともにアメリカ艦船ポーハタン号に向けて小船を漕ぎだした地である。松陰は上陸していたアメリカ人に投夷書とよばれる密航依頼文を渡し、ポーハタン号に向かったが、アメリカ側こ拒否されたために計画は失敗におわった。
宝光院長命寺(廃寺)の跡地は、密航に失敗し自首した吉田松陰と金子重輔が、下田奉行所の命により拘禁された場所であった。
吉田松陰は、安政の大獄に連座して伝馬町獄に入牢となった。処刑の時の近づいたのを知って「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」と刻んだ辞世の歌碑がある。
墓標は「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれ、その向って右に小林民部良典、頼三樹三郎、福原乙之進、左側に来原良蔵・同夫人、綿貫治良助、中谷正亮、野村靖・同夫人の墓など師弟の墓が並んでいる。