ゆかりの地
勝海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町にあった、父勝小吉の実家である男谷邸内(現、両国公園)で生まれた。幼少期より剣術を修め、蘭学・兵学を学んだ。
勝海舟は、最初赤坂へ来たのは福吉町の黒田邸内にいた永井青涯に蘭学を学ぶためだったといわれる。37歳のとき元氷川坂下の東南角に転居し、ここにいた間に、成臨丸艦長としてアメリカへ渡航し、坂本龍馬に出会った。
江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868)3月14日、幕府の陸軍総裁勝海舟は、薩摩藩島津家中屋敷で東征軍参謀西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城と徳川慶喜の水戸隠退を約束させ、江戸を兵火から救った。
明治維新の英傑、西郷隆盛と勝海舟は、大政奉還の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名である。海舟は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、隆盛と日本の将来について歓談されたと伝えられる。隆盛はその後、明治10年(1877)の西南戦没により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されたが、これを惜しまれた海舟は、追慕のため 隆盛の漢詩を建碑され、さらに明治16年(1883)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立した。
勝海舟は、維新後海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任は、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。