元禄5年(1692)江戸幕府が、新しく天領(直轄領)を飛騨においた御役所(江戸勘定奉行直属)の跡である。当時ここでは、江戸から派遣された代官(のちに郡代)を中心に、手付・手代・地役人らが政務をとった。明治時代以降も、高山県庁、筑摩県支庁、大野郡役所、飛騨県事務所などとして、昭和44年(1969)まで使用された。
書役部屋は書役が書類を作成した部屋である。
座敷はお客様を接待した部屋である。
中ノ口は役宅への出入り口である。
女中部屋は女中が生活する部屋である。
赤土・石灰に苦塩(にがり)をまぜ、水を加えて練り、叩き固めてある。
嵐山の間といわれた郡代の日常の生活場所である。
御白州は砂利が敷かれ白く見えので白州という。犯罪者を吟味する。一般庶民は白州、由緒ある浪人や御用達町人は板縁、武士・僧侶・神宮は縁側で吟味を受けた。
高山陣屋の屋根材(くれ板)に使用しているネズコ(ヒノキ科)は、腐りにくく、丸太から板に割りやすい材質である。
「山岡鉄舟は江戸で旗本の子として生まれ、飛騨国高山で育つ。幼少から新陰流剣術、樫原流槍術、北辰一刀流剣術を学び、才能を示した。その後に江戸へ出て、21歳で軍事訓練所・講武所の剣術世話人となる。また、新選組の前身である浪士組の取締役にもなった。
明治元年(1868)、戊辰戦争での勝海舟と西郷隆盛の会談では、それに先立ち、海舟の使者として単身西郷と面会した。鉄舟の毅然とした主張を西郷は認め、これが江戸無血開城の布石となった。」(※)
市内の中心部を流れる宮川にかかる飛騨高山の代表的な橋である赤い中橋と桜が調和し、美しい光景が見られる。
高山市政記念館は、明治28年(1895)から昭和43年(1968)まで使用された町役場・市役所の建物である。
鍛冶橋から弥生橋の宮川沿いの道に、旬の野菜や果物、花、民芸品、スイーツなどを販売する露店が並ぶ。