品川寺~海雲寺~大井公園~しながわ区民公園散歩
(品川~池上)

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散歩コース

品川駅(JR山手線)~品川寺~海雲寺~大井公園~しながわ区民公園~鈴ヶ森刑場跡~大森貝塚遺跡庭園~池上駅(東急池上線)

mark品川寺(ほんせんじ)
東海道南品川
東海道南品川
銅造地蔵菩薩坐像
銅造地蔵菩薩坐像

 江戸六地蔵(1番品川寺・2番東禅寺・3番太宗寺・4番真性寺・5番霊巌寺・6番永代寺)のうち、品川寺の地蔵は一番古く、宝永5年(1708)に造立されたものである。像高は、現存するものの中で一番大きく275cmあり、かっては鍍金が施されていた。

山門
山門
大梵鐘
大梵鐘

 大梵鐘は明暦3年(1657)鋳造、四代将軍徳川家綱によって寄進された。周囲に徳川三将軍の号(東照宮・台徳院殿・大猷院殿)と六観音像を鋳出する。

本堂
本堂
境内
境内

 品川寺は海照山普門院と号し、真言宗醍醐派の別格本山である。当寺の開創は寺伝では大同年間(806-810)といわれている。弘法大師が東国巡錫の際、この地域の領主品川氏に水月観音の像を授けたが、以来応永2年(1395)、品川左京亮の代にいたるまで代々同家に伝えられてきた。
 東海七福神の毘沙門天は本堂内に祀られている。

大銀杏
大銀杏
弁天堂
弁天堂

 大銀杏は高さ25m樹齢600年と推定され、品川区指定文化財となっている。

自然石の庚申塔
自然石の庚申塔
庚申塔
庚申塔

 大銀杏の根元には庚申塔が二基建てられている。自然石の庚申塔は、この地域には珍しい型態のもので、自然石の表面に釈迦の種子バクと造立年代、そして施主の人名を刻んである。宝8年(1680)に板倉八兵衛等が造立したもので、総高2mにおよぶ見事な庚申塔である。

mark海雲寺(かいうんじ)
山門
山門
本堂
本堂

 龍吟山瑞林院と号し、建長3年(1251)不山東用和尚の開いた寺である。開創当初は近くの海曼寺ともども臨済宗であったが、慶長元年(1596)、海曼寺五世分外祖耕を開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)、海雲寺となった。本堂には本尊十一面観音が安置されている。

千躰荒神堂
千躰荒神堂
天井絵
天井絵

 千躰荒神堂は「品川の荒神さん」と呼ばれ、火と水の神として、また台所の神として東京一円に信徒がいて、毎年3月27・28日、11月27・28日は、大勢の信徒の参詣があって境内がにぎわう。

鐘楼
鐘楼
力石
力石

 鐘楼には、大正14年(1925)鋳造の梵鐘がかけられている。
 力石は、若者達の力競べに大正の中頃まで使われていた。

鐘楼の柱の彫刻
鐘楼の柱の彫刻
鐘楼の柱の彫刻
鐘楼の柱の彫刻

 鐘楼の柱には、見事な彫刻が彫られている。

mark大井公園(おおいこうえん)
大井公園
大井公園(公園・庭園)
仙台藩下屋敷跡の石碑
仙台藩下屋敷跡の石碑

 大井公園一帯は越前間部下総守の下屋敷があった。もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であったが、元文2年(1737)に一時鯖江藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換して間部家の下屋敷となったが、その後一部は再び伊達家の所有となった。
 公園横の道を立会小学校へ向かうと、階段の上に山内家墓所がある。

山内豊信(容堂)の墓
山内豊信(容堂)の墓

 「文政10(1827)年、山内容堂は南邸山内氏である山内豊著の側室の子として生まれたが、本家の土佐藩十四代藩主山内豊惇が嗣子のないまま急逝したため、急遽本家を継ぎ、嘉永元年(1848)十五代藩主となった。
 進歩的で強力な行動は幕府に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。
」()

候姫の墓
候姫の墓
十六代藩主代豊範夫人の墓
十六代藩主代豊範夫人の墓

 候姫は十三代藩主豊熈の正室で、薩摩藩十代藩主島津斉興の娘である。

山内家合祀の墓
山内家合祀の墓
山内家下屋敷跡
山内家下屋敷跡(東大井3丁目ほか)

 立会川沿いの土佐藩山内家の下屋敷1万6800坪余と抱屋敷(揚場869坪)は、東海道往還を挟んで東西に位置し、抱屋敷は河口に位置していた。

mark北浜川児童遊園(きたはまかわじどうゆうえん)
坂本龍馬像
坂本龍馬像(公園・庭園)
大村庵の砲台そば
大村庵の砲台そば

 ペリー提督が初めて来航した嘉永6年(1853)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中である。土佐藩は立会川河口にあった下屋敷警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わっていた。

mark浜川砲台跡(はまかわほうだいあと)
浜川砲台跡
浜川砲台跡
六貫目ホーイッスル砲(復元)
六貫目ホーイッスル砲(復元)

 土佐藩は、ここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出て、嘉永7年(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが浜川砲台である。この浜川砲台に、佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の龍馬も加わっていた。

markしながわ区民公園(しながわくみんこうえん)
しながわ区民公園
しながわ区民公園(公園・庭園)
ユリカモメとオナガガモ
ユリカモメとオナガガモ

 「花とひろばと水と緑の公園」をテーマとした区立公園は、最大規模の総合公園で昭和62年(1987)4月に全面オープンした。

勝島の海
勝島の海
ゆりかもめ橋
ゆりかもめ橋

 勝島の海は運河の海水を利用しており、クロダイ・ボラ・ハゼなどの魚が生息しており、また、ユリカモメ・オナガガモ・カワセミなどの野鳥観察が楽しめる。しながわ水族館が併設されている。

mark鈴ヶ森刑場跡(すずがもりけいじょうあと)
鈴ケ森刑場跡
鈴ヶ森刑場跡
案内板
案内板

 日光街道の小塚原とともに江戸時代のお仕置場である。江戸時代の刑罰は厳しく、10両以上盗めば死刑である。単なる死罰は伝馬町牢屋敷で執行されたが、獄門の場合は獄内で打ち首ののち、鈴ヶ森・小塚原に首を3日間さらした(さらし首)。

mark大森貝塚遺跡庭園(おおもりかいづかいせきていえん)(品川区)
大森貝塚遺跡庭園
大森貝塚遺跡庭園(公園・庭園)
大森貝塚から発掘された貝層
大森貝塚から発掘された貝層(国史跡)

 「庭園内には、大森貝塚の碑(品川区)がある。昭和4年(1929)毎日新聞社長本山彦一や考古学者小金井良精らが立てたものである。明治10(1877)アメリカから来日した動物学者モース博士が、新橋・横浜間の車窓から発見・発掘した地点はどこかと問題にされていたが、現在でも、碑の周辺に縄文時代の貝殻が散らばっている品川区のほうであるという説が有力である。貝塚の中には縄文時代の品川人のくらしをとく鍵が、いっぱいつまっている。海の生物の骨や陸の生物の骨、鳥の骨などが出土している。」()

モース博士像
モース博士像
大森貝塚の碑
大森貝塚の碑(大田区)

 「アメリカの動物学者。標本採集に来日し、請われて東京大学のお雇い教授を2年勤め、大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。 大森貝塚を発掘した。日本に初めて、ダーウィンの進化論を体系的に紹介した。
 大森駅山王北口を出て右に行くと、ほどなくNTTデータ通信局があり、その敷地の線路際に 大森貝塚の碑(大田区)がある。モースのもとで当時発掘に参加した佐々木忠次郎をはじめ、21名の著名な学者が発起人となって、昭和5年(1930)に建立されたものである。
」()

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