川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古い田中本陣は、寛永5年(1628)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下の本陣」ともいわれた。
砂子一丁目交差点から鶴見方面へ向って旧東海道を歩く。
今も街道沿いに残る神社・寺・旧跡には、詳しい説明板や旧東海道の案内図が整備されているので、歩きながら江戸時代の歴史を知ることが出来る。
京急八丁畷駅手前の線路沿いに「芭蕉句碑」がある。ここ八丁畷の由来は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村の区間は八丁(約870メートル)あり、道が田畑の中を真直ぐのびていたので八丁畷と呼ばれた。
俳聖松尾芭蕉は元禄7年(1694)5月江戸深川芭蕉庵を立ち、郷里の伊賀への帰途、川崎宿に立ち寄り門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある。
麦の穂を たよりにつかむ 別れかな
京急の踏切を渡り、ここから鶴見川までの間に、熊野神社・市場一里塚・ 金剛寺がある。
熊野神社は、およそ1200年前、紀州熊野本宮の御分霊をこの地に勧請したのが始まりと伝えられる由諸ある神社であり、古事記・日本書紀の神話を題材にした仮面黙劇の市場神代里神楽が残っている。
市場一里塚は、江戸(日本橋)より五里目の塚に当たり、横浜市内で最初の一里塚です。明治10年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
光明山金剛寺は、嵯峨天皇の代に尊慶法印が草創されたお寺で、玉川八十八ヶ所霊場11番、東海三十三観音霊場9番、東国八十八ヵ所霊場10番になっている。
鶴見川橋を越えた左手には鶴見橋関門旧跡が残っている。横浜開港(1859年)後、外国人への危害を防ぐため関門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まった関門の一つであった。
JR鶴見駅近くにある鶴見神社の創建は推古天皇代と伝えられ、横浜・鶴見の間では最古の社です。又、「鶴見の田祭り」は鎌倉時代から受け継がれた伝統行事で、毎年4月29日(みどりの日)に境内で行われる。
境内社の稲荷神社(一番右側)は、旧東海道の鶴見橋付近寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷を、大正年間に鶴見神社境内に移された。
京急鶴見駅より約20分でJR鶴見線の国道駅に着いた。駅の開業は昭和5年(1930)、JR鶴見線と国道との交差にあることから国道駅となった。今でも、高架下の様子は昭和初期の風情が残っている。国道駅から生麦魚海岸通りを歩き、「蛇も蚊も祭り」で知られる道念稲荷神社から「生麦事件の碑」へ向った。
道念稲荷神社の横浜市指定無形民俗文化財「蛇も蚊も」は、約300年前に悪疫が流行した時、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられている。この行事は端午の節句の行事とされていたが、現在は6月の第一日曜日に行われている。
「生麦事件は、井伊直弼の日米修好通商条約違勅調印によって攘夷運動が高まるなかで発生した。
文久2年(1862)8月、十二代藩主島津忠義の父久光一行は、幕政改革の勅命を幕府に伝えるための勅使大原重徳を警護して江戸にいき、帰途の8月21日午後2時ごろこの地をとおりかかった。その際、イギリス人のリチャードソン、クラーク、マーシャル、ポロデール夫人の4人が乗馬のまま行列を横切ろうとした。言葉がつうじず指示に従わなかったため、斬りつけられ、リチャードソンはまもなく絶命し、ほかのものは負傷しアメリカ領事館となっていた神奈川の本覚寺に逃げ込み、負傷者はヘボンの治癒をうけた。リチャードソンの墓は山手の外国人墓地にある。」(※)
キリン横浜ビアビレッジでは、ビールの歴史を学んだり、瓶・缶・樽それぞれの製造ラインを無料見学するツアーがある。
約40分間の見学の最後には、試飲コーナーで出来たてのビールを頂けるので横浜の人気スポットになっている。(予約が必要)
試飲コーナーから外へ出ると、芝生の緑が美しいヒルトップガーデンがある。ビール工場内を見学された団体が、ほろ酔い機嫌で記念写真を撮っていた。
ここから、第一京浜(国道15号)を歩きJR新子安駅に着いた。