「安政6年(1859)6月2日に横浜港が開港し、外国人が居留地へ入ってきた。慌てた徳川幕府は、外国人居留地を隔離するため、横浜村の村人たちを急遽山手の丘の裾に立ち退かせた。3カ月の突貫工事で完成した掘割は新大川と呼ばれ、元町橋(現前田橋)と谷町橋(現谷戸橋)がかけられた。これが今日の元町の起源である。」(※)
「フランス山をのぼった左奥が港の見える丘公園である。ここはかってイギリス海軍病院があった場所だが、関東大震災で倒壊し、その後さびれた原っぱとなっていたが、昭和37年(1962)横浜市の公園として整備・開園された。名称は第二次世界大戦後はやった歌謡曲「港の見える丘」にちなんでいる。」(※)
丘は標高35mほどで、港やベイブリッジを眺望する絶好の場所となっている。
横浜とバラの関わりは、開港とともに数多くの西洋文化と一緒に上陸したことに始まる。明治の初め、山手の外国人住宅の庭に梅、桜、菊、ぼたん等、日本の園芸植物と一緒にかって美しい花が咲き誇っていた。
バラは「いばらぼたん」とか「洋ぼたん」と呼んでいた。その後、外国人との交流が盛んになるにつれて、市民の庭にも植えられるようになった。
園内は、綺麗な春の花々も咲いていた。
「鞍馬天狗」などの小説で知られる作家、大佛次郎の記念館である。横浜生まれであることから、港の見える丘公園の西側に建てられた。館内には約350点の資料を展示している。
横浜市イギリス館園内にある横浜市イギリス館は、昭和12年(1937)建造の風格ある西洋館で、領事館が東京へ移ったあとの昭和44年(1969)、横浜市が取得しイギリス館として保存整備された。
山手本通りから港をみおろす斜面一帯が、横浜外国人墓地になっている。約2万3000㎡の敷地に4200人余りの外国人が眠っている。その国籍はイギリス人約1500人を筆頭に40数カ国におよぶ。
外国人墓地入口付近、よく晴れた日には遠くに富士山を望むことができる。
山手カトリック教会は、文久2年(1862)居留地80番にたてられた横浜天主堂を引きつぎ、横浜でももっとも古い起源をもつ。明治39年(1906)現在地に移されたが、当時は双塔がそびえるゴシック様式レンガ造りの教会堂で、「トンガリ耶蘇」とよばれて親しまれた。