【藤原清衡】
奥州で勢力を拡大した藤原清衡は、平泉に居を移し、新しい政治文化の中心都市建設を始めた。清衡は京の藤原摂関家と緊密な関係を保ちながら、奥州全土の支配を確立する。天治元(1124)年には平泉に、金箔で覆われた金色堂を建立した。
ゆかりの地
「金色堂は覆堂という建物の内部にあり、外部から護られている。皆金色の建造物には「天治元(1124)年」銘の棟木があり、奥州藤原氏初代当主藤原清衡が69歳の時に棟上げされたことが知られている。堂内には3つの須弥壇があり、それぞれ阿弥陀如来を中心とした金色堂堂内諸像及天蓋(国宝)が安置されている。中央壇には清衡、西南壇に基衡、西北壇に秀衡のものと伝えられる棺が納められている。四代泰衡の首級も秀衡の西北壇に納められている。」(※)
【藤原基衡】
国司の力を上まる勢力を得た藤原基衡は、一時国司との紛争まで起こしたが、京都の藤原氏との関係を築くことで和に努め。その結果奥州での地位を一層固めるとができた。平泉に毛越寺を建立した。
ゆかりの地
【藤原秀衡】
藤原秀衡は奥州藤原氏の最盛期を築いた。奥州産の金と馬によって巨大な財力を蓄えるに至り、当時の平泉は、平安京に次ぐ人口を擁する都市となった。また、源義経を16歳から6年間養育した。また、晩年には源頼朝から追われる源義経をかくまった。
【藤原泰衡】
藤原泰衡は、文治5年(1189)初代将軍源頼朝による奥州合戦(鎌倉政権vs奥州藤原氏)で平泉から逃れ、比内郡(現、秋田県大館市)で家臣河田次郎に殺された。