「御三階櫓や時鐘・堀・門などが復元され、かつての忍城の姿を彷彿させる。ここは忍城の中心あった本丸の跡地である。御三階櫓や時鐘は当時と場所が異なる景観復元であるのは残念だが、西側には土塁が残されており、近くの水城公園とともに散歩すれば、かつて浮城といわれた忍城の姿が思い描ける。
忍城は成田氏によって15世紀後半に築かれ、天文15年(1546)、関東一円の支配をめざす北条氏にくだった。天文22年(1553)には十六代当主上杉謙信に攻められたこともある。しかし、忍城の名を天下に知らしめたのは、天正18年(1590)の石田三成による水攻めである。城主不在にもかかわらず、小田原城が開城してから11日後にようやく開城となった。」(※)
「御三階櫓は元禄15年(1702)忍城の大改修により完成したものである。江戸近郊の城郭では天守閣を築くことは許されず、3重の櫓が代用としてつくられた。文政6年(1823)忍・白河・桑名の3藩に三方領地替えが命ぜられ、桑名の於平氏が忍城へ移った。以後明治維新まで、於平氏が忍10万石の城主である。幕末の動乱を乗りこえた忍城であったが、明治6年(1873)ごろに主要な建物はすべて競売に付せられ、かつての面影は失われた。」(※)
城内にあった櫓に使用された石垣。元禄15年(1702)に三階櫓一棟、二階櫓二棟が建てられたが、明治6年(1873)の廃城により解体された。
「忍東照宮は、徳川家康公の娘・亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625年)、大和国郡山城内に社殿を造営して肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇高の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いの折、大坂蔵屋敷にあった東照宮を忍東照宮に合祀した。」(※)
忍城は「浮き城」とも呼ばれ、沼地に浮かぶ島を橋でつないでいた。