「十九代当主武田信玄は、十八代当主武田信虎と大井夫人の長男として生まれる。成人して晴信を名乗るが、一般に知られている信玄は法名である。
天文10年(1541)、父信虎を駿河に追放して甲斐の守護となり、信濃を制圧して山内上杉家十六代当主上杉謙信と対立し、五度に及び川中島で合戦を繰り返す。
その後、将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、戦国最強と謳われた甲斐軍団を率いて京都進出を企て、徳川家康を三方ヶ原に破る。」(※)
甲府市藤村記念館は、明治8年(1875)に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に睦沢学校として建てられた学校の校舎で、平成22年(2010)、甲府駅周辺の再開発事業の一環として甲府駅前の北広場に再移築された。
武田信虎が居館の移転を図った。その地が、甲府盆地の北端、相川扇状地の開析部に位置し、三方に山を負い、南に盆地を一望のもとに収める、躑躅ケ崎である。永正16年(1519)年8月、この躑躅ケ崎で館の築造にかかり、年末には移転した。
「武田氏滅亡後、徳川家康は北条氏との緊張状態のなかで家臣平岩親吉に武田氏館を修築・整備させているが天正18年(1590)、一条小山の地にあらたに甲府城が築造されるにおよんで、その役割を最終的に終えた。武田氏館跡して国史跡に指定されている。」(※)
水琴窟は土中に底に小さな穴をあけたカメを埋め、そこにわずかな水を流す。水はその穴から水滴となって落ち、カメの中で反響し、琴の音にも似た澄んだ音色を地中に響かせる。
名水「姫の井戸」は一説によると信玄公の御息女誕生の折、産湯に使用と云い、また「茶之湯の井戸」とも言われる。
毎年、美しい能舞台では薪能が催されている。
「円光院の入り口近くに武田信玄火葬塚がある。
元亀4年(1573)三河の野田城攻略中に発病。帰国途中の信濃伊那駒場で没する。密かに甲斐国に送られた信玄の遺骸は葬儀まで塗籠の中に納められていたと信玄の最期を伝える手紙は記している。一方、伊那の駒場で茶毘に付されたとの説もあり、遺骸がどのように処置されたかは不明である。この場所を信玄の墓所として公認したのは、信玄を崇敬した柳沢吉保である。」(※)
金堂より早く完成したとされる山門は重層の楼門で、桁行16.88m・梁間6.75m・屋根幅22.9m・株高15m。和様と唐様を折衷した建造物で、正面は扉なしの通路、両脇には仁王像がまつられている。
「武田信玄の信州攻略も、天文22年(553)の川中島の合戦以後、善光寺平をめぐる上杉謙信との激戦になるが、弘治3年(1557)の合戦で、武田方が善光寺および戸隠付近を掌握し、北信の大部分を支配下においた。翌年、信玄は善光寺の本尊阿弥陀如来を始め、寺宝・梵鐘、一山の僧俗を甲州に移し、参道と門前町まで信濃とほぼ同規模の地割りを行って、板垣の里に伽藍の造営を開始した。甲斐善光寺の始まりである。」(※)
現在の金堂は、30年におよぶ工事の末、寛政8年(1796)に完成した。善光寺建築に特有の撞木造の屋根は、本堂の横棟に礼堂の竪棟が連結して撞木の形(丁字型)をしており、全面に裳階がある。桁行38.15m・梁間23.06m・高さ26.06mの東日本有数の木造建築物であり、堂々たる景観をみせている。
正和2年(1313)鋳造の梵鐘、文保3年(1319)造立の初代将軍源頼朝像など、信濃善光寺に由来するものを始め、国の重要文化財5件、山梨県指定文化財4件、甲府市指定文化財8件など多数の文化財を有し、その一部は宝物館で公開されている。