「墨俣宿本陣跡から、さらに200mほど北上すると、正面にみえてくるのが墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)である。永禄年間(1558~70)、尾張の織田信長は、宿敵である美濃斎藤氏への攻略拠点としてこの墨俣に砦を築くために、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に墨俣築城の命令を下した。」(※)
「永禄9年(1566)9月、木下藤吉郎は濃尾の地理に詳しい蜂巣賀小六らの協力を得て、墨俣築城に着手した。その方法は、木材など必要な資材や道具をあらかじめ河川の上流に準備しておき、木曽川・境川の水運を利用して墨俣に運びいれ、一気に築城するという斬新なものである。9月12日、藤吉郎以下2000の兵が築城にとりかかり、13日の夕刻早くも馬柵と櫓がほぼ完成した。」(※)
現在の模擬天守閣は、平成3年(1991)歴史資料館として建造されたもので、墨俣築城に関する資料が展示されている。また歴史資料館の周囲には、当時の馬柵が復元されるとともに、墨俣築城犠牲者の墓や、西行法師の歌碑などが整備されている。
春がやってきて「うぐいす」が、梅に止まり梅の実が成り始めて、花が散って終わる頃に美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の境にある洲俣に来たという意味である。豊臣秀吉は、千成びょうたんを馬印に、次々と手柄を立て、天下人の地位を手に入れました。