「平安時代に千本丸太町交差点北東にあった天皇の居所である内裏を引き継ぐものが、現在の京都御所である。天皇は摂関家など高級貴族の邸宅を御所としたが、平安時代後期には里内裏が実質的な政治の中心となった。
南北朝時代になって里内裏の1つ東洞院土御門内裏が北朝の皇居となり、その後、この地が現在の御所のもとになった。御所はそ の後も焼失・再建を繰り返し、戦国時代には荒廃したが、安土桃山 から江戸時代にかけて、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らが再建に努めた。天明の大火後には老中松平定信が平安朝の古制で復興することに意をそそぎ、柴野栗山や宝暦事件で永蟄居を命じられていた裏松光世らを登用し、現在の規模に再建した。しかし嘉永7年(1854)に再び全焼、翌安政2年(1855)に 再建されたのが今日の御所である。」(※)
昇殿を許された者が参内する時の玄関で、諸大夫の間や清涼殿、小御所等と廊下でつながっている。
参内した者の控えの間で、身分の上下によって異なった部屋に控えた。襖の絵にちなんで、格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」とよばれる部屋が並ぶ。
新御車寄は、大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、建てられたもので、大正以後の天皇皇后両陛下の玄関である。
天皇の即位式や立太子礼など重要な儀式が行われる東西33m・南北23mの高床式の檜皮葺き入母屋造建物で、南庭には東に左近の桜(平安時代初期は梅)、西に右近の橘が植えられている。慶応4年(1868)には「五箇条のご誓文」の舞台ともなった。明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼はこの建物で行われた。
春興殿は、大正天皇の即位式に神鏡を奉安する建物として建造されたもの。
天皇の居住する日常の間で、檜皮葺きの寝殿造建物、母屋には天皇の休憩所である御帳台がある。その手前には天皇の公式の執務場所で、2枚の畳を敷いた昼御座がある。
池を中心とした回遊式庭園である。前面は洲浜で、その中に舟着への飛石を置いている。右手に欅橋が架かり、対面には樹木を配し、様々な景色を楽しむことができる。
蹴鞠は鹿革でできた鞠を落とさず蹴り渡す球戯で、一定の作法のもとに行われる。この場所で蹴鞠が催され、天皇が御覧になった。
御学問所は御読書始めの儀、和歌の会など学芸関係のほか、臣下と対面される行事などにも用いられた。
御常御殿は紫震殿と並ぶ大きな建物で、部屋数がもっとも多い。天皇の日常的な住まいの空間であるとともに新年の祝賀や拝謁も行われた。また南は剣璽の間で天皇の印鑑である璽をおく。
御内庭は屈折した遣り水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で、奥に茶室を構えている。
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、七夕などの内向きの行事に使用され、万延元年(1860)祐宮(後の明治天皇)が8歳の時、成長を願う儀式「深曽木」がここで行われた。