散歩コース
練馬駅(西武池袋線)~広徳寺~氷川神社(大氷川)~下練馬宿~東武練馬駅(東武東上線)「四代当主北条氏政の子、岩槻城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院として開山したのが創建で、小田原城落城(1590)の際、焼失したと伝えられています。その後、徳川家康が二世希叟和尚を江戸神田に招き再興しました。寛永12年(1635)には下谷に移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となりました。しかし関東大震災で寺域は焼失し、その後の区画整理のため、大正14年(1925)からこの地に墓地を移し、別院としました。昭和46年には本坊も写し、平成2年の開山明叟和尚400遠年諱を記念して、庫裡、位牌堂を建て替え、現在のたたずまいとなりました。」(※)
庫裏と本堂の間に美しい庭園が見られる。
広徳寺は寛永12年(1635)に下谷へ移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家する江戸屈指の大寺院となった。大正12年(1923)の関東大震災の後、この地へ別院が建てられ、墓地が移転した。昭和46年(1971)には本坊も移転してきた。
【墓地】
奥の墓地には、剣法の柳生宗矩父子の墓をはじめ、近世大名二十余家の巨大な墓石が林立している。(墓地内の見学については、お寺の許可をいただいて撮影しています)
大和柳生藩初代藩主柳生宗矩(右から1番目)は、51歳で徳川家光の剣術の師範となった。柳生三厳(右から2番目)は、剣豪・旗本で十兵衞の名で知られている。父宗矩に命ぜられて家光に稽古をつけるのが常である。2年後、家光が三代将軍となってからも、新将軍の格好の稽古相手となった。右から3番目は、宗矩の三男の三代藩主柳生宗冬である。
大聖寺新田藩主前田利昌は、江戸時代中期の大名である。
徳川家光の茶道師範の小堀遠州は、本名は政一。備中松山藩備中代官(のち近江小室藩初代藩主)であり、茶人、建築家、作庭家でもある。茶人・古田織部を師にもち、遠州流を開いた。駿河城修復や大坂城内の茶室などの普請にたずさわり名をあげた。
織田信雄は、 織田信長の次男で伊勢国司北畠具教の養子となる。本能寺の変後は織田姓に戻る。小田原の戦い後に家康の旧領への移封を拒み、豊臣秀吉の怒りを買い剃髪した。宇陀松山藩初代藩主となる。織田高長は、織田信雄の息子で二代藩主である。子孫は宇陀松山藩主として明治に至っている。織田信包は、織田信長の弟で柏原藩初代藩主である。
公家近衛家墓所で、近衛秀麿の墓がある。
文禄・慶長の役で活躍した柳河藩初代藩主立花宗茂の墓石は立派である。
大名家墓地の紅葉と竹林が美しかった。
氷川神社は旧下練馬村の鎮守で、社伝によれば、創建は長禄元年(1457)に渋川義鏡が古河公方の足利成氏との闘いの途上、石神井川の近くでこんこんと湧き出る泉(お浜井戸)を見つけ、兵を休めて須佐之男尊を祀り武運長久を祈ったことに始まる。
天明7年(1787)の立派な狛犬がある。(東京都有形文化財)
「江戸時代の延享年間(1744-48)に現在地に鎮座したと伝えられる。この故事により、今では三年に一度、かっては毎年4月の春祭りには、神輿がお浜井戸まで神幸渡御するお里帰りの行事がある。お浜井戸へ着くと、祭典執行後、獅子舞・鶴の舞が奉納され、神社へ帰った後、拝殿で田遊びの行事が奉納された。いずれも豊作祈願の農村伝承である。」(※)
境内には稲荷・北野・須賀・出雲社がある。
旧川越街道と大山街道との分岐点に、下練馬村の名主内田久右衛門らによって立てられた、石の大山道の道標がある。角柱に「従是大山道」と記し、上部に不動明王坐像の丸彫りを設置している。大山道は別名をふじ大山道・富士街道・行者街道とも呼ばれている。
川越街道は、後北条氏時代、小田原-江戸-川越を結ぶ幹線道路である。北一商店街にあった下練馬宿は、中山道板橋宿から二つ目の宿場で、日本橋より3里、大根の名産地である。近世、この街道を利用した大名は、川越藩主だけだったので、下練馬宿は 庶民相手の休み茶屋のある程度の宿場であったという。
浅間神社境内には富士講の記念碑がたくさんある。昭和2年(1927)6月1日止宿中とあるものに、氏子総出場600人・諸職人150人と刻まれているのをみると、相当大きな富士講と思われる。
ここには、天和2年(1682)銘の「北町聖観音座像」をはじめ馬頭観音や庚申塔など数多くの石造物があります。江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文「遊歴雑記」にも、文化12年(1815)にここを訪れた記述があり、往来の人々の信仰や赤塚村への分岐道の目印となっていたことが分かります
重厚な造りの像で、聖観音座像建立の翌年に建てられたものである。
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