散歩コース
東京駅(JR東海道線)~皇居東御苑~東京駅(JR東海道線)【大手門】
大手門は、大名や役人が本丸に登下域する際の正門である。
大手門渡櫓は元和6年(1620)伊達政宗らの御手伝普請によって築造された。政宗の要した費用は人夫述べ約42万人、黄金2676枚であったという。明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失して再建されたが、その後も何回かの修理が行われてきた。
桝形内の植え込みの中にある1基の鯱は、明暦の大火後に再建されたときの渡櫓の屋根にあったもので、今の渡櫓は昭和43年(1968)に再建された。
【番所】
百人番所は、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていた。各組には同心が100人ずつ配属されていた。
同心番所は同心が詰め、主として、登城する大名の供の警備に当たっていた。
番所とは、警備の詰所のことで、百人番所・大番所・同心番所の3つが残っている。
【中之門跡】
中之門の石垣には江戸城の中でも最大級の巨石が使われ、布積みという技法で積まれている。また、石垣には、本丸御殿への登城口として渡櫓門が配置されていた。
【中雀門跡】
【富士見櫓】
「慶長11年(1606)本丸造営工事の際に、櫓台地域の石垣を加藤清正が築いており、富士見櫓もこのときに創建された。明暦の大火で焼失した後、万治2年(1659)三層の櫓として再建された。天守が再建されなかったので、江戸城中央部に位置するこの櫓が天守のかわりの役割を果たした。
慶応4年(1868)5月の彰義隊との戦争(上野戦争)では、政府軍の指揮官大村益次郎は、この櫓から上野の寛永寺の堂塔が炎上するのを見て、勝利を確信したという。
現存する櫓は桜田二重櫓(巽櫓)・富士見櫓・二重橋奥の伏見櫓の3基だけで、いずれも関東大震災の被害をうけたが、外観は、従来通りに、コンクリート作りで復元されている。」(※)
【富士見多聞(西面)】
富士見多聞は石垣上に築いた長屋造の建物で、城壁の役割をもち、武器や諸道具の収蔵庫に用いた。本丸の多聞15棟の中で現存する唯一のもの。将軍が政務をとり、寝室でもあった御休息之間の前にあったことから、江戸時代は御休息所前多聞といわれていた。
【松之大廊下跡】
松之大廊下跡は、元禄14年(1701)3月14日、勅使饗応役浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷におよび、即日一関藩主田村右京太夫の屋敷で切腹を命ぜられた。四十七義士墓所、大石内蔵助良雄の銅像、首洗い井戸、義士館などが品川の泉岳寺に残っている。
【本丸跡】
本丸は江戸城の内郭(内堀内)のひとつで、そこにあったのが本丸御殿。江戸城内で最も大きな建築物であり、将軍の居所、幕府の政治の中心となる最重要箇所だったため、防備も堅く周囲は櫓で囲まれていた。
「長禄元年(1457)、江戸城は、扇谷上杉家の家老の太田道灌が、古河公足利成氏との抗争の戦略拠点として築いた平山城である。道灌築城の江戸城は、長くのびた台地の先端部、現在の本丸(皇居東御苑)の位置に築かれていた。」(※)
【天守台跡】
「慶長8年(1603)、征夷大将軍に就任し江戸幕府を創立した家康は、江戸城にの大改修を開始する。慶長11年(1606)には、本丸・二の丸が全面的に石垣造りに築き直され、最初の天守が建てられた。その後、家康・秀忠・家光三代にわたり築城工事は継続し、寛永年間(1630年代)に三代目の天守が完成した。
現存の天守台跡は、明暦の大火で焼失後、四代目の天守を建てるために築かれたが、実際に天守が建てられなかった。」(※)
【北桔橋門】
天守台北側に北桔橋門は、本来は桝形門型式であったが、現在は一の橋の高麗門だけが復元されている。本丸の搦手(城の後側)に当たり、北の丸公園とをつなぐもので、有事には橋をはね上げて敵を遮断できる構造になっていた。
乾濠側の石垣は江戸城中で最も重厚壮大で、曲線の変化が美しい石垣が見られる。
【桃華楽堂】
桃華楽堂は、香淳皇后(昭和天皇の皇后)のご還暦をお祝いして、昭和41年(1966)に建設された音楽堂です。
【梅見坂・汐見坂】
梅林坂は平川門と本丸を結ぶ坂で、梅林坂・汐見坂間石垣の修復工事は、平成14年7月から平成17年3月にかけて行われ、石垣は変形前の形状に復元されている。
汐見坂は、本丸と二の丸をつなぐ坂道。その昔、今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができた。坂の上には、汐見坂門が設けられていた。
太田道灌が菅原道真を祀った際に、梅の木をここに植えたのが梅林坂の始まりと伝えられている。
千代田区永田町の日枝神社も道灌が観請し、家康が江戸城内の紅葉山に移す前は、梅林坂にあったと言われている。
【都道府県の木】
「都道府県の木」には、全国都道府県で指定されている木々が植えられている。
【二の丸庭園】
「江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる二の丸庭園があったが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していた。現在の回遊式の庭園は、昭和43年(1968)の皇居東御苑の公開開始に当たり、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られた。」(※)
【諏訪の茶屋】
諏訪の茶屋は、明治時代に吹上御苑に建てられ、御休所として使われていた茶屋を、二の丸に移築した建物です。
春には、諏訪の茶屋前のツツジが綺麗に咲き誇る。
【皇居乾通り一般公開の桜 2016年】
3月下旬、本丸跡近くのアマギヨシノ(天城吉野)の花が満開になり、「春の皇居乾通り一般公開」の帰りに花見する人が多かった。
【皇居乾通り一般公開の紅葉 2015年】
「秋の皇居乾通り一般公開」の帰りに、乾門から皇居東御苑の紅葉を見られる人が多かった。
園内は、美しい紅葉と椿園のサザンカが見頃でした。
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