散歩コース
泉岳寺駅(京急本線)~泉岳寺~泉岳寺駅(京急本線) 中門は天保7年(1836)に再建され、昭和7年(1932)に大修理を施されたものである。
山門は天保3年(1832)、三十四世大道貞鈞和尚代に再建されたものである。
泉岳寺は慶長17年(1612)、門庵宗関によって、江戸城近くの外桜田の地に創建された。その後、寛永の大火によって焼失したため、現在の東京都港区高輪に移された。寺内に、首洗井、義士館、大石内蔵助良雄の銅像などがある。毎年、2月4日、3月14日、4月1~7日、12月14日に祭典を催し、多くの参拝者がある。
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている。
この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現、聖路加国際病院)の裏門で、明治時代に移築したものである。
「浅野内匠頭長矩は延宝3年(1675)、9歳で父・長友の知行を引き継ぎ赤穂藩主となる。天和3年(1683)、亜久里との婚儀を行い、同年に初めて勅使饗応役を努める。元禄14年(1701)3月14日、勅使饗応役浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介に刃傷におよび、即日一関藩主田村右京太夫の屋敷で切腹を命ぜられた。」(※)
浅野家の断絶に対して吉良にはおとがめがなかったことから、喧嘩両成敗の原則に反するとして、家老大石内蔵助良雄ら四十七義士は翌年の12月14日吉良邸に討ち入って主君の遺恨をはらし、翌日泉岳寺の主君の墓前に報告した。
「義士一同は、12月15日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四家に預けられた。翌元禄16年(1703)2月4日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。(寺坂吉右衛門は、討ち入り後、大石の命で国元への報告のために別行動をとったという)」(※)
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