明治22年(1889)福地源一郎らによって、旧木挽町3丁目東隣に完成・開場され、歌舞伎のメッカとして現在に至っている。現在、第五期歌舞伎座である。
関東大震災で焼失後、伊東忠太の設計で昭和6年(1931)に起工、35年に完成した。17世紀初頭、西本願寺の准如が、関東地方に布教をひろめる拠点として橘町(現、東日本橋3丁目)に創建した。明暦の大火で焼失したため、幕府からこの地を与えられ、佃島の門徒らの協力で海浜を埋立てて再建した。
親鸞聖人像 |
間新六の供養塔 |
親鸞聖人は9歳で慈円のもとで出家し、範宴と名乗った。そして比叡山に登り、20年に及ぶ厳しい修行を積んだ。しかし、このとき自力修行の限界を感じたという。範宴は69歳になる法然の草庵を訪ね、弟子となった。しかし、このころ信者を急激に増やした浄土宗は旧仏教から敵視されており、さらに後鳥羽上皇の念仏停止の断が下されていたため、師の 法然に連座し、越後へ配流された。僧籍を剥奪されたため、親鸞(浄土真宗開祖)と名乗ったのはこのときからである。
吉良邸に討入りした赤穂浪士間新六(光風)は、麻布の長府藩毛利家上屋敷(現、毛利庭園)へ預かりとなり切腹する。新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬された。
土生玄碩の墓 |
森孫右衛門の供養塔 |
土生玄碩は江戸時代後期の眼科医で、十二代将軍徳川家慶の眼疾を治療した。文政12年(1829)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったとで、シーボルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放された。
森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた。
陸上交通殉職者追悼之碑 |
九条武子の歌碑 |
九条武子は、本願寺21世門主大谷光尊の次女で社会事業につくし、歌人としても知られる
聖路加国際病院(旧館) |
R・B・トイスラー医師 |
病院はもと築地病院と呼ばれ、明治33年(1900)ルドルフ・ボリング・トイスラー医師が再建した。聖十字を尖頭にいただく建物は、昭和8年(1933)に完成された。
トイスラー記念館 |
アメリカ公使館跡石標(星) |
アメリカ公使館は、安政6年(1859)ハリスにより、元麻布の善福寺に開設されたが、明治8年(1875)12月築地の外国人居留地内のこの地に新設され、明治23年(1890)3月赤坂の現在地に移転された。
最後の移転により、この地に8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷺、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷺はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国の13州を示す。
アメリカ公使館跡石標(白頭鷺) |
アメリカ公使館跡石標(星条旗) |
蘭学の泉の碑 |
慶應義塾発祥の地碑 |
聖路加病院の敷地は豊前(大分県)中津藩主奥平家の中屋敷のあった所で、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵・桂川哺周らは、安永3年(1774)に「解体新書」を出版した。日本における蘭学興隆の出発点となった所である。
また、同じ中津藩士の福沢諭吉は、安政5年(1858)藩邸内に蘭学塾を開くとともに、独学で英語を修めた。
シーボルト胸像 |
電信創業之地 |
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。文政9年(1826)正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、文政9年(1826)11月シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。
明治2年(1869)、横浜電信局と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32kmの電信線が開始された。
昭和15年(1940)に隅田川最下流にかけられた橋で、銀座と晴海埠頭を結んでいる。中央部が真中で割れて70度まで開く跳開橋で、最盛期には1日5回、各20分間船を通していた。現在では橋上の交通量の激増で閉鎖している。
かちどきの渡し碑 |
海軍経理学校の碑 |
明治20年代に対岸の埋立て(現在の月島・勝どき地区)が行われると、明治38年(1905)築地の海幸橋のたもとと対岸を結ぶ渡しが設けられ、日露戦争の勝利を記念して「勝鬨の渡し」と命名され、以来、昭和15年(1940)勝鬨橋の架橋までの35年間、重要な交通機関となった。
明治21年(1888)芝から浴恩園に移ってきた海軍会計学舎(のちに海軍経理学校)を記念する海軍経理学校の碑がある。
隅田川テラス |
築地大橋 |
東陽院 |
十返舎一九の墓 |
東陽院の納骨堂墓所には、江戸後期の戯作者十返舎一九の墓がある。十返舎一九は本姓は重田といい、明和2年(1765)駿河(静岡県)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者、蔦谷重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも、「東海道中膝栗毛」はよく知られている。
月島地区は明治25年(192)に埋立てが完成した。当初は工業用地として造成したものであるが、住宅地域として発展し、関東大震災、太平洋戦争の戦災をまぬがれた。
佃小橋と超高層マンション |
船留りと超高層マンション |
佃島は、寛永年間(1624-44)に摂津国(大阪府)佃村の漁師が、鉄砲洲の東、隅田川河口の石川島南続きの干潟100間(約180m)四方の地を幕府から拝領し、埋立てて住みついた所である。
佃小橋 |
船留り |
佃島の漁師は、将軍献上の白魚漁(11月~3月)を義務づけられていたが、隅田川上流の千住あたりから品川沖に至る広大な海上の漁業権を与えられていた。現在では白魚漁や海苔栽培もできなくなり、船橋と船溜りにその面影を残すのみである。
住吉神社 正面鳥居 |
水盤舎 |
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で白地に呉須で額字や雲文を染付ている。文字は有栖川宮幟仁親王の筆による。
水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物である。
住吉神社 |
龍神社 |
正保元年(1644)郷里の摂津国の住吉神社から分祀したもので 江戸時代には海上の守り神として、漁民や廻船問屋など幅広い層からの信仰を集めていた。
八角神輿 |
石井きんざ句碑 |
現在、3年に1度の例大祭では、8月初旬に神輿が町内を巡行する連合渡御が行なわれている。
石井きんざ句碑
明治は遠くになっても江戸が残る佃の夏祭り
佃川支川 |
石川島灯台跡 |
隅田川の住吉水門から入る佃川支川は、中央で直角で西南に折れ、佃小橋の先は佃掘になっている。
佃公園 |
佃大橋 |
「佃の渡し」の位置に掛けられた佃大橋は、昭和36年(1961)12月に起工され、昭和39年(1964)8月に竣工した。南詰は佃島・月島間の佃川を埋めて道路とし、旧佃島の西北隅がこの道路にかかっている。
みどりの風像 |
中央区平和都市宣言 |
中央大橋 |
隅田川 |
古代以来、下総国と武蔵国の境をなした隅田川は、利根川の支流であった。天正18年(1590)年の徳川家康の江戸入府以来、治水対策は幕府の大きな課題であった。江戸時代初期以来の河川の大改修工事によって、隅田川は荒川水系の一部となった。