散歩コース
勝どき橋西バス停~勝鬨橋~東陽院~月島川~佃小橋~住吉神社~佃公園~門前仲町駅(地下鉄東西線)昭和15年(1940)に隅田川最下流にかけられた橋で、銀座と晴海埠頭を結んでいる。中央部が真中で割れて70度まで開く跳開橋で、最盛期には1日5回、各20分間船を通していた。現在では橋上の交通量の激増で閉鎖している。
明治20年代に対岸の埋立て(現在の月島・勝どき地区)が行われると、明治38年(1905)築地の海幸橋のたもとと対岸を結ぶ渡しが設けられ、日露戦争の勝利を記念して「勝鬨の渡し」と命名され、以来、昭和15年(1940)勝鬨橋の架橋までの35年間、重要な交通機関となった。
明治21年(1888)芝から浴恩園に移ってきた海軍会計学舎(のちに海軍経理学校)を記念する海軍経理学校の碑がある。
隅田川で最も下流に位置する築地大橋は、平成30年(2018)に開通した。
東陽院の納骨堂墓所には、江戸後期の戯作者十返舎一九の墓がある。十返舎一九は本姓は重田といい、明和2年(1765)駿河(静岡県)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者、蔦谷重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも、「東海道中膝栗毛」はよく知られている。
月島地区は明治25年(192)に埋立てが完成した。当初は工業用地として造成したものであるが、住宅地域として発展し、関東大震災、太平洋戦争の戦災をまぬがれた。
佃島の漁師は、将軍献上の白魚漁(11月~3月)を義務づけられていたが、隅田川上流の千住あたりから品川沖に至る広大な海上の漁業権を与えられていた。現在では白魚漁や海苔栽培もできなくなり、船橋と船溜りにその面影を残すのみである。
旧佃島は、寛永年間(1624-44)に摂津国(大阪府)佃村の漁師が、鉄砲洲の東、隅田川河口の石川島南続きの干潟100間(約180m)四方の地を幕府から拝領し、埋立てて住みついた所である。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で白地に呉須で額字や雲文を染付ている。文字は有栖川宮幟仁親王の筆による。
水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物である。
正保元年(1644)郷里の摂津国の住吉神社から分祀したもので 江戸時代には海上の守り神として、漁民や廻船問屋など幅広い層からの信仰を集めていた。
現在、3年に1度の例大祭では、8月初旬に神輿が町内を巡行する連合渡御が行なわれている。
石井きんざ句碑
明治は遠くになっても江戸が残る佃の夏祭り
隅田川の住吉水門から入る佃川支川は、中央で直角で西南に折れ、佃小橋の先は佃掘になっている。
「佃の渡し」の位置に掛けられた佃大橋は、昭和36年(1961)12月に起工され、昭和39年(1964)8月に竣工した。南詰は佃島・月島間の佃川を埋めて道路とし、旧佃島の西北隅がこの道路にかかっている。
平成6年(1994)に開通した中央大橋は、八重洲通りを通す橋で中央区新川二丁目と中央区佃一丁目を結ぶ。
古代以来、下総国と武蔵国の境をなした隅田川は、利根川の支流である。天正18年(1590)年の徳川家康の江戸入府以来、治水対策は幕府の大きな課題である。江戸時代初期以来の河川の大改修工事によって、隅田川は荒川水系の一部となった。
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勝どき橋西バス停~勝鬨橋~東陽院~月島川~佃小橋~住吉神社~佃公園~門前仲町駅(地下鉄東西線)