隅田川(橋)

 古代以来、下総国と武蔵国の境をなした隅田川は、利根川の支流であった。天正18年(1590)年の徳川家康の江戸入府以来、治水対策は幕府の大きな課題であった。江戸時代初期以来の河川の大改修工事によって、隅田川は荒川水系の一部となった。さらに昭和5年(1930)の荒川放水路の完成によって、現在の水系ができあがった。かつては千住大橋の下流を隅田川といったが、昭和51年(1976)からは上流の岩淵水門から下流を隅田川と呼ぶことになった。

現在の千住大橋
現在の千住大橋(撮影 2002.8.24)

 文禄3年(1594)に普請奉行伊奈忠次(1550~1610)によってかけられたもので、隅田川にかかる橋の中で最も古いものである。

桜橋
桜橋(撮影 2013.3.23)

 昭和60年(1985)に完成したⅩ字型の歩行者専用の桜橋がある。対岸の木立の中に見える屋根は待乳山聖天である。

2013.3.23 隅田公園桜まつりyoutube

言問橋
言問橋(撮影 2013.3.23)

 隅田川にかかる言問橋は昭和3年(1928)の完成で、その名は『伊勢物語』の中に出てくる在原業平の有名な和歌「名にしおはばいざ言問はん都鳥……」に由来する。ここに置かれているコンクリート塊は、平成4年(1992)言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものである。昭和20年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ。大勢の人が犠牲となった。

吾妻橋
吾妻橋(撮影 2013.3.23)

 吾妻橋は江戸時代前半には橋はなく、竹屋の渡しがあったが、安永3年(1774)花川戸・下谷の町人の願い出によって橋が完成し、大川橋と呼ばれたくこのあたりから下流の隅田川を江戸時代には大川といった)。この橋は、武士以外の通行人から渡し賃2文ずつを徴収する民営の橋であった。現在の 吾妻橋は昭和3年(1928)に完成したもので、西詰め北側には隅田川遊覧の水上バス発着所がある。

竹屋の渡し跡
竹屋の渡し跡(撮影 2013.3.23)

 竹屋の渡し跡は隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷堀口から向島三囲神社の前あたりを結んでいた。明治40年(1907)刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き『待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云』と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳の渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。

駒形橋
駒形橋(撮影 2001.4.1)

 駒形の名は、吉原の太夫高尾が仙台藩三代藩主伊達綱宗に贈った「君はいま 駒形あたり 時鳥」の句で有名である。歌川(安藤)広重は『名所江戸百景』の中で、駒形堂の屋根の上を飛び過ぎるホトトギスを描いている。

両国橋
両国橋(撮影 2016.12.24)

 明暦3年(1657)の明暦の大火の際、浅草橋の門を閉ざしたため、その南で逃げ場を失い、多くの焼死者・溺死者を出した。それまで江戸防衛の見地から、千住大橋以外、隅田川への架橋を禁じていた幕府は、防災の必要を痛感し、万治元年(1658)架橋を認め、2年後に両国橋が完成した。初めは大橋といったが、いつしか両国橋と呼ばれるようになった。両国橋の名は隅田川の両岸、武蔵国(西側)と下総国(東側)にちなんだ俗称であった。

両国大橋
両国大橋(撮影 2017.12.19)

新大橋
新大橋(撮影 2017.12.19)

 新大橋は、元禄6年(1693)、白子屋伊右衛門の請負により52日間で完成し、同年12月に渡りぞめがあり、新大橋と命名されたという。

隅田川大橋
隅田川大橋(撮影 2017.12.19)

永代橋
永代橋(撮影 2017.12.19)

 永代橋は深川の玄関口にあたり、現在の橋は1926(大正15)年に完成したもので 重量感にあふれている。江戸時代の初めは深川の大渡しといって渡し船があったが、千住大橋・両国橋・新大橋に次いで、元禄11年(1698)に架橋された。享保4年(1719)には老朽化して大破したので 幕府は廃棄することにしたが、付近の住民はその存続を幕府に訴え、通行人から橋銭を徴収する民営の橋とすることとなった。

中央大橋
中央大橋(撮影 2017.9.2)

佃大橋
佃大橋(撮影 2017.9.2)

 「佃の渡し」の位置に掛けられた佃大橋は、昭和36年(1961)12月に起工され、昭和39年(1964)8月に竣工した。南詰は佃島・月島間の佃川を埋めて道路とし、旧佃島の西北隅がこの道路にかかっている

勝鬨橋
勝鬨橋(撮影 2017.9.2)

 勝鬨橋は、昭和15年(1940)に隅田川最下流にかけられた橋で、銀座と晴海埠頭を結んでいる。中央部が真中で割れて70度まで開く跳開橋で、最盛期には1日5回、各20分間船を通していた。現在では橋上の交通量の激増で閉鎖している。

勝かちどきの渡し碑
勝かちどきの渡し碑(撮影 2017.9.2)

 明治20年代に対岸の埋立て(現在の月島・勝どき地区)が行われると、明治38年(1905)築地の海幸橋のたもとと対岸を結ぶ渡しが設けられ、日露戦争の勝利を記念して「勝鬨の渡し」と命名され、以来、昭和15年(1940)勝鬨橋の架橋までの35年間、重要な交通機関となった。

築地大橋(未開通)
築地大橋(未開通)(撮影 2017.9.2)

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