東門はJR偕楽園臨時駅に最も近く、常磐神社石階段を上りきった左手にある。現在はJR偕楽園臨時駅や偕楽園前バス停、偕楽園下駐車場などからの交通便が良いため、観梅の時期などは一番賑わう門である。
時の移り変わりにつれて、長い間観梅の主役であった芸姑連(芸者)に変わって登場したのが、「水戸の梅むすめ」。もともと、昭和38年(1963)、初めて10人の梅むすめが選ばれたのは、芸姑に変わってお出迎え、園内の案内など、観梅期間中だけの、いわばサービス係として実験的に考えられたもの。
梅まつりの期間中には、水戸黄門漫遊一座との写真撮影サービスがある。
「偕楽園は水戸藩九代藩主徳川斉昭(烈公)が「民と階に楽しむ」という趣旨に基づき自ら構想を練り創設したもので、天保12年(1841)4月に建設に着手し、翌13年7月に竣工開園した。近代の公園に近い性格をもっている庭園といえる。また、地勢や周囲の自然を生かしたつくりは「風景簡素にして雄渾を極める」「様式斬新にして空前なり」「造園学の立場より観れば、同園は日本三名園(金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園)中最も優れたものであると言い得る」と評されている。」(※)
「好文亭は水戸藩九代藩主徳川斉昭がその位置や意匠について定めたというわれ、偕楽園(常磐公園)の創設と同時に建てられた。
この待合は、茶席に招かれた客が席の準備ができるまで控え待っていた所である。壁には斉昭の書で「茶説」「茶対」「巧詐不如拙誠」を彫り付けたものが塗り込められている。」(※)
萩の間は、藩主夫人がお城から好文亭においでなった時、お付きの御殿中女が休憩した控えの部屋である。
好文亭の名は梅の別名好文木に由良し、二層三階建ての好文亭本体と平屋建ての奥御殿を総称して好文亭と呼んでいた。各所に創意工夫と洒脱さを感じさせ、斉昭はここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安の会を催した。
偕楽園は早春には約100品種、3,000本の梅の花が咲き誇る梅の名所として知られている。
柳川枝垂は蕾の内は濃紅色の萼に包まれているが、咲き始めると萼が反り返る。
江南所無は重ねの厚い抱え咲き、萼は紅茶色、しべは満開になると内側は束開し、外側は散開する。
田鶴鳴梅林は偕楽園本園から間近に見える梅林で、桜山・丸山などの旧跡や新たに整備した梅林へと続いている。多様な品種の梅があるため、長期間にわたって梅の花を楽しめる。
月の桂は花弁波あり、5弁であるが6弁のでる割合高い。
白難波はさし木でよく発根、台木に用いる。
「大日本史は、明暦3年(1657)水戸藩二代藩主徳川光圀が編集に着手されてから歴代の藩主がその意志を継承され、実に250年を経て圀順公の時に至り、明治39年(1906)この地で397巻の完成をみたのである。
安積澹泊は江戸で朱舜水から儒学を学び、彰考館(水戸藩が「大日本史」を編纂するために置いた史局)の総裁を務めた。水戸黄門漫遊記に登場する「格さん」のモデルと伝えられる。」(※)
崖急に 梅ことごとく 斜めなり
この句は、明治時代の代表的な俳人正岡子規が明治22年(1889)4月5日に偕楽園を訪れた際、好文亭から見た南崖の梅の印象を後年詠んだものである。「急な勾配の崖のところにも、その地形に合わせてどの梅の木も斜めになって立ち、しかし懸命に花を咲かせている」。
「常磐神社は水戸光圀(義公)・徳川斉昭(烈公)を祀る神城で、偕楽園の東側にあり、明治7年(1874)、梅林の一部を境内とし社殿が完成した。社殿左手にあった能楽堂が整備され、年1回薪能がもようされる。大砲鋳造用の青銅製溶解炉や水戸城跡から発掘された元禄年間(1688~1704)の火薬壺などが保存され、右側には薩摩の西郷隆盛・越前の橋本左内から敬仰された藤田東湖を祀る摂社神社がある。
常磐神社の東側に水戸黄門宝物館である義烈館があり、水戸光圀(義公)・徳川斉昭(烈公)や幕末志士関係の遺墨・遺品や、斉昭が設計した太極砲、斉昭自筆銘の大陣太鼓などが陳列されている。」(※)
「千波湖は、桜川浸食谷が、那珂川の運ぶ土砂によってせきとめられてできた沼で、大正10年(1921)にはじまり、昭和7年(1932)に完成した大干拓事業によって、3分の1の規模に縮小された。湖の西側には田鶴鳴梅林・猩々梅林・窈窕梅林や四季の原などがつくられ、公園区域が拡大された。西側周辺を「黄門像広場」には、水戸黄門(徳川光圀公)像や徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像がある。」(※)
「十五代将軍徳川慶喜は、天保8年(1837)9月29日、江戸の小石川水戸藩邸(後楽園)で九代藩主徳川斉昭の七男として生まれた。母は斉昭の正室で、有栖川宮熾仁親王の第十二王女の吉子女王。幼名を七朗磨といい、「男子は国元で教育する」という斉昭の教育方針により水戸で育てられ、帝王学をたたき込まれた。弘化4年(1847)9月、十二代将軍徳川家慶の内密の意向て御三卿一橋家の世継となり、昭致と名乗る。12月には元服して、家慶の一字を賜り、慶喜と改名した。
徳川斉昭は、寛政12年(1800)に七代藩主治紀の三男として江戸の小石川水戸藩邸(後楽園)に生まれ、30歳で藩主に就任した。就任後すぐに藩政の改革に取り組み、倹約の徹底と追鳥狩の実施、藩内総検地、弘道館と偕楽園の造成、定府制の廃止など諸政策を推進した(天保の改革)。」(※)
「寛永5年(1628)、徳川光圀は徳川頼房の三男として、水戸城下にあった家臣・三木之次の屋敷で生まれた。母は頼房の側室・久子。頼房は久子が懐妊したことを知ると、2度までも堕胎を命じたといわれている。その理由は、ほかの側室に遠慮したともいわれているが真偽は不明だ。しかし三木之次の計らいで、久子は2度とも密に出産したのだった。元和8年(1622)に生まれた子は長男に当たる竹丸(のちの頼重)、そして2度目に生まれたのが長丸、のちの光圀である。」(※)