散歩コース
浅草駅(都営浅草線)~隅田公園(台東区側)~吾妻橋~言問橋~山谷堀公園~隅田公園(墨田区側)~牛嶋神社~浅草駅(都営浅草線)隅田公園は、 隅田川を中心に、昭和6年(1931)完成した台東区(花川戸、浅草、今戸)と墨田区(向島1、2、5)の両岸にまたがる臨水公園で、台東区側は、吾妻橋際の昔の一銭蒸気から続いている水上バス発着点。公共施設としては今戸橋際の隅田プール、テニスコート、 スポーツセンター、陸上競技場、野球場などがあり、その面積は9万2400平方メートルに及んでいる。
隅田川の吾妻橋・ 桜橋間は、江戸時代から桜の名所。 隅田公園の桜は約670本。隅田川の屋形船から両岸の桜並木を眺める風流な花見も楽しめる。
吾妻橋は江戸時代前半には橋はなく、 竹屋の渡しがあったが、安永3年(1774)花川戸・下谷の町人の願い出によって橋が完成し、大川橋と呼ばれたくこのあたりから下流の隅田川を江戸時代には大川といった)。この橋は、武士以外の通行人から渡し賃2文ずつを徴収する民営の橋である。現在の吾妻橋は昭和3年(1928)に完成したもので、西詰め北側には隅田川遊覧の水上バス発着所がある。
隅田川にかかる 言問橋は昭和3年(1928)の完成で、その名は『伊勢物語』の中に出てくる在原業平の有名な和歌「名にしおはばいざ言問はん都鳥……」に由来する。ここに置かれているコンクリート塊は、平成4年(1992)言問橋の欄干を改修した際に、その基部の 縁石を切り取ったものである。昭和20年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ。大勢の人が犠牲となった。
隅田公園のこの一帯は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦中の空襲により被災した台東区民は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂に納骨された。
武鳥羽衣作詞、滝廉太郎作曲の唱歌「花」を記念して、昭和31年(1956)1月3日建てられ、碑には「春のうらゝのすみた河 上り下りのふな人が かいのしつくも花と散る 眺めをなにゝたとふへき」の詩が羽衣の自筆で刻まれている。
昭和60年(1985)に完成したⅩ字型の歩行者専用の 桜橋がある。対岸の木立の中に見える屋根は待乳山聖天で、かってはこの両岸をつないで 竹屋の渡しがあった。
竹屋の渡し跡は隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷堀口から向島三囲神社の前あたりを結んでいた。明治40年(1907)刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き『待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云』と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳の渡」とも呼ばれたようである。
「公園には山谷堀を示すものとして、 今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋と、かっての橋梁に取り付けられていた銘板が残されているが、正法寺橋跡際にある正法寺の毘沙門は、昔は縁日で栄えその夜店は言問橋際から寺内にまで延々と続いたといわれる。毘沙門はこて造りだが、なかなかの優品ゆえ拝見されるといい。」(※)
現在の今戸橋は、欄干のみが残っている。今戸は、江戸時代以来今戸焼で知られてきた。一説には、天正年間(1573~92)に下総国(千葉県)の千葉氏の家臣が姶軌貞享年間(1684~88)に白井半七が基礎を固めたという。瓦のほか、招き猫・蚊遣・火鉢など、庶民生活に欠かせぬ素朴な焼物が中心である。
明治8年(1875)花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸藩徳川家下屋敷(小梅下屋敷)を選びました。その際に詠んだ歌がここに残されている。
花ぐわし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり
藤田東湖の「正気之歌」詩碑がある。東湖は、水戸藩の代表的な尊皇攘夷論者で、弘化2年(1843)から3年間この下屋敷に幽閉されていたことがある。そのおりに「天地正大の気 粋然として神州に鐘まるる」と、有名な「正気之歌」をよんでいる。
「関東大震災後、帝都復興計画に基づいて、火除け地として造園された。東京大空襲による被害や、高速道路工事・防潮堤工事で一時期荒廃していたが、現在では埴樹・散歩道の改修などによって、面目を一新している。隅田川東岸のうち、本所・両国地区は、17世紀後半の両国橋・新大橋の架橋によって発展したが、向島地区は、江戸近郊の農村地帯としてのどかな田園風景がひろがっていた。」(※)
昔は、利根川は 隅田川に合流していた。寛永12年(1635)、江戸を水害から救うため、関東郡代、伊奈備前守は、これを銚子沖に放水し隅田川の水量を調整した。隅田川は、江戸発展に重要な役割を果たし、また文芸や錦絵にたくさん題材にされてきた。
本所の総鎮守で、古くから「牛の御前」と呼ばれていた。寺名は本所一帯がかつて牛島と呼ばれていたことによる。
「拝殿前の「三輪鳥居」は全国でも珍しい。
縁起によると、貞観年間(859~77)に円仁(慈覚大師)の創建と伝えられ、治承4年(1180)の初代将軍源頼朝の挙兵にあたり、下総国から 隅田川をわたって武蔵国に入るおり、千葉常胤が当社に祈顕した。社宝の旗指物には「国分庄司 千葉五郎平朝臣胤道」と記されている。」(※)
撫牛は、自分の体の悪い場所と同じところを撫でると病気が治る事で知られている。
「勝海舟は、旗本の子として生まれたが、幼少期より剣術を修め、蘭学・兵学を学んだ。嘉永6年(1853)年、ペリーが開国を要求してくると、老中阿部正弘は、意見を諸大名から町人に至るまで広く求めた。このとき海舟の書いた海防に関しての意見書が正弘の目にとまり、海舟は、幕府海防掛の大久保忠寛を通じ、幕政参加への足がかりを得た。」(※)
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