散歩コース
飯田橋駅(JR総武線)~ 小石川後楽園~飯田橋駅(JR総武線)「水戸藩初代藩主徳川頼房が寛永6年(1629)に三代将軍徳川家光からこの地を賜って、水戸藩徳川家上屋敷と庭園を造営、次の水戸藩二代藩主徳川光圀(水戸黄門)のときに完成した。もともと小石川の低湿地だった所を利用して心字池をつくり、神田上水の分流を導入し、奇石を配して、山あり谷ありの変化に富む回遊式山泉水庭園に仕上げた。」(※)
小石川後楽園の枝垂れ桜は、樹齢推定約60年。3月下旬には見事な花を咲かせる。
小石川後楽園は文化財保護法によって、国特別名勝、国特別史跡に指定されている。この二重指定を受けているのは、全国でも小石川後楽園、浜離宮恩賜庭園、など、ごく限られている。
白糸の滝は六代藩主徳川治保のときに造られた。その様子が千条の白糸を垂れているように見えるのでこの名がつけられた。
円月橋は、朱舜水の設計と指導により名工「齣橋嘉兵衛」が造った橋が水面に映る形が満月になることからこの名がつけられた。後に八代将軍徳川吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。
神田上水は江戸開府以降、人口を飛躍的に増やしていった江戸にとって、急がれたのが飲料水の確保だった。井の頭池の湧水が小石川上水によって引かれ、多摩川の水を江戸に引く玉川上水も掘削された。小石川上水はのちに神田上水となり、長く生活用水として利用されたが、明治時代の半ばになって、衛生上の理由から廃止された。
徳川光圀七歳のとき、三代将軍徳川家光に謁見したおり、「文昌星」像を頂載した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂跡を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正12年の関東大震災で焼失した。
九八屋は江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むには昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。戦災により焼失したが昭和34年に復元した。
唐門は内庭から後門に入る門で、唐様の極彩色の彫刻をもった壮麗な建築物で朱舜水の書いた「後楽園」の扁額がかけられていたが戦災で焼失した。
内庭池水が滝となって木曽川に落ちるところで、木曽路の名所「寝覚め床」にになんで呼ばれている。
延段は中国風の素朴な石畳で、切石と玉石を巧みに組み合わせたものである。
西行堂跡は徳川頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。ここにある西行法師の歌碑は、水戸藩九代藩主徳川斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。
西湖の堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、本園以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなった。
京都の嵐山の下を流れる大堰川にになんだもので、家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に種々助言を与えたものと言われている。両岸には蛇篭を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れ、江戸時代には清き流れで園景を引き立てていた。
小石川後楽園の造営を完成させた徳川光圀は、得仁堂を創建し、泰伯・伯夷・叔斎像を安置した。
京都・東山東福寺の「通天橋」にならい、 大堰川の渓流に朱塗りの紅橋をかけたもので、この付近の楓の紅葉は趣が深いところである。
昔の田舎のわびた茶屋のたたずまいを現している。戦災で焼失したが昭和41年に復元した。
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飯田橋駅(JR総武線)~ 小石川後楽園~飯田橋駅(JR総武線)