散歩コース
浜松町駅(JR山手線)~ 旧芝離宮恩賜庭園~ 浜離宮恩賜庭園~新橋駅(JR東海道線) 小石川後楽園とともに、今に残る最も古い大名庭園のひとつ。典型的な「回遊式泉水庭園」で、池を中心にした地割りと石割は秀逸である。
延宝6年(1678)に老中・大久保忠朝(小田原藩)の邸地となる。忠朝は小田原藩大久保家上屋敷を建てる際に、藩地の小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、これを「楽寿園」と命名した。今でも、当時の上屋敷の茶室の石柱が残っている。
幕末には、紀州藩徳川家芝屋敷となった。
園内には、約9,000㎡の広さをもつ泉水は、昔は海水を引き入れた潮入りの池。枯滝は、山峡を流れ落ちる滝を彷佛とさせる石組み、流れの河底が通路になっていて、景観の変化を楽しむことができる。
枯滝は園景の要となる箇所で、池の中央にある中島。中国で仙人が住み不死の地といわれる霊山を模した石組みとなっている。
海の波打際に造られた九尺台は、明治天皇が明治8年にこの庭園に行幸された際、この台上から、海で漁民達が漁をする様子や海の眺望を楽しまれた所と云われている。
庭園内の最も高い築山で、大山の眺めがいい場所である。
今日は、都立九庭園では「都立庭園紅葉めぐりスタンプラリー」開催中で、各庭園の紅葉を楽しむ大勢の人達でにぎわっていた。
(都立九庭園)
浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園、小石川後楽園、旧岩崎邸庭園、六義園、向島百花園、清澄庭園、旧古河庭園、殿ケ谷戸庭園の九庭園がある。
「海水を引き入れた潮入の池と、ふたつの鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園。承応3年(1654)、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍徳川家綱の弟で甲府藩主徳川綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。その後、綱重の子の徳川家宣が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになった。」(※)
中島の御茶屋は、宝永4年(1707)に造られて以来、将軍をはじめ御台様、公家たちがここで庭園の見飽きぬ眺望を堪能していた休憩所です。
およそ300年前の宝永6年(1709)、家宣が、この庭園を大改修した時に植えられたと伝えられ、その偉業を表現するような雄姿は昔時をしのばせるもので、都内では最大級の黒松です。
お伝い橋は、潮入の池の岸から小の字島と 中島の御茶屋を結ぶ延長118mもある総檜造りの橋で、平成9年(1997)5月架け替えた。
江戸時代、将軍が隅田川から浜御殿に来られたときや舟遊びをして休息のために立ち寄られたときなど、乗降された船着場で、今も原形を保っている。明治元年(1868)1月12日未明、最後の将軍となった十五代将軍徳川慶喜は、大阪から軍艦開陽丸で江戸に入り、この お上り場から上陸して、騎馬で江戸城へ帰還したと云われている。
昔から、この堰で海水の出入りを調整している。東京湾の潮の干満を利用して池の水位を上下させ、庭の趣に変化を持たせるように作られた「潮入の池」が造られた。
中の御門(出入口)から園内に入ると、正面に可美真手命銅像が立っている。可美真手命は饒速日命(にぎはやのみこと)の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍神の銅像。明治27年(1894)、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品。
「潮入りの池」に海水を取り入れるために、設けられた水路である。水路の石垣や鋼鉄製の水門の遺構が見られる。現在は、海とのつながりを絶たれ、淡水の池になっている。
鴨場は池と林を3mほどの土手で囲い、土手には常緑樹や竹笹をびっしりと植え、鴨が安心して休息できるように外部と遮断しました。ここでは池に幾筋かの引堀(細い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、稗・粟などのエサとおとりのアヒルで引掘におびきよせ、機をみて土手の陰から網ですくいとるという猟を行っていた。
【菜の花 3月】
庭園から見える汐留シオサイト(東京汐留ビルディングなど)は、江戸時代の仙台藩伊達家上屋敷であった。
3月上旬には30万本の菜の花が咲く。花を食べ続けるヒヨドリが群がっている。
【桜 4月】
3月下旬~4月上旬にかけてソメイヨシノが咲き誇るさくらの名所です。
【雪景色 1月】
冬の時期には、ボタン園の冬ぼたん、雪の中島の御茶屋、そして梅林では早咲きの梅もあり、雪景色の美しい庭園を楽しむこともできる。
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