「成巽閣は江戸時代末期、文久3年(1863)に前田家13代齋泰が母堂にあたる12代奥方、真龍院(鷹司隆子)のために造営した奥方御殿です。真龍院の生家、鷹司家の御殿が「辰巳殿」と呼ばれていた事や「辰巳用水」が庭園を流れ、「辰巳長屋」が配されるなど「辰巳」の言葉に縁が深く、加えて金沢城より「巽」の方角にある事から「巽御殿」と名付けられた。」(※)
「兼六園は、池泉回遊式の江戸時代を代表する大名庭園である。10万坪におよぶ広大な園内のうち、瓢池や翠滝の付近は、延宝4年(1676)に加賀藩四代藩主前田綱紀によって創設された旧蓮池庭にあたり、「蓮池の御亭」がおかれた当初の雰囲気が味わえる。
日本三名園(金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園)に数えられている。」(※)
霞ケ池は天保8年(1873)に堀りひろげられた池で、広さは5800平方メートル。池の中の島は、蓬莱島といい、不老長寿をあらわしており、また亀の甲の形をしているので、別名、亀甲島ともいう。
七福神山は、文政5年(1822)に建てられた竹沢御殿からながめた築山である。
「「兼六園」の名は、老中松平定信が斉広の依頼により名づけたものである。定信は、北未の『洛陽名園記』から、「宏大に努めれば幽邃少なし、人力勝れば蒼古少なし、水泉多ければ眺望艱し、この六つを兼ぬるは、この潮園のみ」を引用し、「兼六園」の揮毫を贈ったが、この庭を実際に訪れてはいない。」(※)
園内に現存する最も古い建物で、安永3年(1774)に建てられた茶室である。茶席の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の適があるので夕顔亭という亭名がつけられている。