通玄橋から500mほどいくと突き当りの紅葉ケ谷にある瑞泉寺は、臨済宗円覚寺派、山号は錦屏山、開山は夢窓疎石である。
幕末には吉田桧陰が、住職になっていた伯父の竹院和尚を4回ほど訪ね、のちに瑞泉寺を想う漢詩を残している。
「南北朝期に入り、初代将軍足利尊氏の子で初代鎌倉公方足利基氏は夢窓疎石に帰依し、貞治6年(1367)に没すると違命で瑞泉寺に葬られた。
以後、鎌倉公方代々の菩提所として栄え、鎌倉五山につぐ関東十刺の第1位とされた。塔頭も10余を数え、義堂周信のような五山の高僧も住職となり、訪れる高僧も多く、五山文学の一中心ともなった。
室町時代後期には衰微したが、江戸時代には円覚寺から住職がはいって再興された。水戸藩二代藩主徳川光圀が『新編鎌倉志』編纂のために訪れ、徧界一覧亭を再建し、観音菩薩像を安置した。」(※)
正面奥の仏殿は、円覚寺舎利殿と同様の禅宗様で再建されている。なかに釈迦如来像や、7人の天皇に信頼されて七朝帝師といわれた夢窓疎石像、徳川光園寄進という千手観音菩薩像などが祀られている。
【黄梅 2月】
黄梅は、江戸時代から知られた梅の老木花弁は退化し、淡黄色幹回り大きくないが、古い木と推定される。牧野富太郎博士はこの梅の木により品種名を与えたと伝えられる。
【スイセン 2月】
「花の寺」といわれ、スイセンを筆頭にウメ、黄梅、福寿草、マンサク、モクレン、シダレザクラなど春の花が次々に咲いていく。
裏の瑞泉寺庭園は発掘復元され、夢窓疎石作庭のころの様子を知ることができる。
夢窓疎石は後醍醐天皇や足利尊氏をはじめ北朝方の公家や武士が帰依し、歴代天皇から国師号を7度も贈与され「七朝帝師」とも称された。京都の西芳寺および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計で知られている。
山裾を切りおとした崖(切岸)を背景に貯清池があり、中島がつくられ、橋がかかり、切岸には天女窟・坐禅窟が穿たれている。その脇に高い滝口がみられ、橋からは裏山の山上にある徧界一覧亭から十八曲の急坂へと道が続いている。
地蔵堂に祀られている地蔵菩薩には、『どこも苦地蔵』と呼ばれる伝説が残る。
大宅壮一評論碑
男の顔は履歴書である
山崎方代歌碑
手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る