城ケ島は、三浦半島の最南端にあり、周囲4km、東西2km、南北わずか500mほどの細長い台地状の小島だが、三崎港の南にあって自然の防波堤の役割を果たし、港の一部として発展してきた。
北原白秋(1885~1942)は、明治・大正・昭和の詩人・歌人です。大正2年(1913)、人妻との恋愛事件で心身とも疲れ、東京をのがれて三崎へ来遊した。のち一家で来住。向ヶ崎の異人館。さらに二谷町の見桃寺などに寄寓した。この三崎時代に『雲母集』『真珠抄』の歌集など数多くの詩を創作した。城ヶ島大橋下の海辺には「城ヶ島の雨」の一節が刻まれる白秋詩碑がある。
大正2年(1913)に白秋の作詩した「城ヶ島の雨」は、曲がついた最初の作品で、大正9年(1919)奥田良三がレコードに吹き込んで全国的にヒットした。そして、この歌が、三浦三崎、城ヶ島を天下に紹介し、日本歌謡の先駆的役割をなした。
毎年、1月中旬から2月上旬頃までの「城ケ島水仙まつり」が開催されおり、園内の散策路には八重水仙 花が咲き誇る。
緑陰広場では、強風により変形した松の姿が見られる。
安房ヶ崎には、慶安元年(1648)のろし台が設けられ、(文化5年(1808)には砲台が設置された。西端の長津呂崎には、延宝6年(1678)灯明台が設けられ、明治3年(1870)には洋式灯台となっている。関東大震災後、これがガス灯から電気灯になった。
公園南側の海蝕崖では、およそ2,000羽にも及ぶウミウの越冬地になっている。
ウミウは毎年11月から翌年4月にかけて飛来する。ウミウ、ヒメウ及クロサギの生息地として県の天然記念物に指定されている。冬の城ヶ島の風物詩になっている。
自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に侵蝕されてこのような見事な形となったもの。土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」「眼鏡の洞門」などと呼ばれている。
馬の背の洞門辺りから城ヶ島灯台までは砂浜を歩く。遠くには富士山を望むことができ、とても景観がすばらしい所であった。
「江戸幕府は、 慶応2年(1866)に、英・仏・米・蘭と締結した「改税約書」に基づき、 8つの灯台建設を決定した。最初に建設を開始したのが観音埼灯台です。明治元年(1868)に横須賀製鉄所建設にたずさわっていだフランス人技師ヴェルニーが建設を担当することになった。横須賀製鉄所のレンガと石灰を使用し、四角形白塗装でフランス製レンズをそなえた灯台が4カ月後に完成し、明治2年(1869)1月l日にわが国最初の洋式灯台として開設された。」(※)
快速観光船の城ヶ島一周コース(約25分間)の遊覧。安房崎灯台、洲の御前、ウミウの生息地、馬の背洞門、城ヶ島灯台などが見所。北原白秋の「城ヶ島の雨」の歌が流れ、白秋の世界に入ります。
海南神社は相模国三浦総鎮守。縁起によれば、藤原資盈は9世紀の中ごろ西国九州より漂着し、当時暴威をふるって三崎の人びとを苦しめていた海賊を平定して、土地の人びとをまもったという。
三浦大介義明が初代将軍源頼朝挙兵のとき、源平の争覇を当社に占った際、白と赤の狐が戦って白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したと伝られる。
三崎漁港は、大正時代から続く日本屈指のマグロの水揚げ場として栄えた。浦漁港に隣接する「三崎産直センター うらり」は、マグロの刺身をはじめ、マグロの串カツ、マグロコロッケ、マグロジェラートなどが人気です。
「三浦時高は永享の乱で、鎌倉公方足利持氏に敵対し、持氏滅亡後はこれにかわった管領上杉氏と結んだ。その後、扇谷上杉持朝の孫三浦義同(道寸)を養子として、名門三浦氏再興ののぞみを推し進めようとした。しかし晩年時高に実子が生まれたので、義同は小田原の総世寺にしりぞいたが、のち大森氏の後援を得て、養父時高を新井城に攻め滅ぼしたという。」(※)
三浦義同は北条早雲との戦いに敗れ、最後の拠点新井城に立てこもった。籠城3年、ついに永正13年(1516)、名門三浦氏はここで滅亡した。このとき多くの将兵が海に三浦氏はここで名望投じ、海が血で油のようになったことから「油壺」の地名の由来という。
詩碑 「外海は荒れてゐて、月の油壺」
荒井浜に通じるハイキングコースを少し入った所に、油壼湾の景勝50選の石碑と、三浦氏滅亡の場となった新井城址がひっそりと残っている。
京急油壼マリンパーク(公式ホームページ)は、小網代湾と油壺湾の間に突き出た岬の先端にある一大レジャーランド。中心となるのは水族館「魚の国」。約3000匹の魚が泳ぐ回遊水槽があり、1周約80m、マリンガールによる餌付けタイムもあり、タイ、ブリ、カツオなどの泳ぎっぷりとともに、楽しませてくれる。
急油壼マリンパークは令和3年(2021)9月30日に閉館した。
京急油壼マリンパーク横から荒井浜へ下りる細い道がある。砂浜から眺める伊豆・天城の連山から箱根の山、富士山は素晴らしい。