豊臣秀吉

豊臣秀吉
秀吉清正記念館 豊臣秀吉像(撮影 2012.2.12)

 織田信長の後継者として天下統一を成しとげ、太閤検地、刀狩りなどの政策で中央集権的体制を整えた。しかし、二度の朝鮮出兵による戦費と兵力の浪費で政権が弱体化した。

中村公園 「豊公誕生之地」碑
中村公園 「豊公誕生之地」碑(撮影 2012.2.12)

 天文6年(1537)、尾張中村に生まれた木下藤吉郎(のちの秀吉)は、10代半ばに家を出て、放浪生活の後、信長に仕えた。最初の役目は草履取り、あるいは近習の使い走りであったといわれる。

墨俣一夜城 木下藤吉郎像
墨俣一夜城 木下藤吉郎像(撮影 2015.12.31 )

 永禄9年(1566)9月、藤吉郎は濃尾の地理に詳しい蜂巣賀小六らの協力を得て、墨俣築城に着手した。その方法は、木材など必要な資材や道具をあらかじめ河川の上流に準備しておき、木曽川・境川の水運を利用して墨俣に運びいれ、一気に築城するという斬新なものであった。9月12日、藤吉郎以下2000の兵が築城にとりかかり、13日の夕刻早くも馬柵と櫓がほぼ完成した。藤吉郎は築城成功の功績を認められ、墨俣城主となり、後生「一夜城」として賞賛されるに至った。

長浜城模擬天守
長浜城 模擬天守(撮影 2017.12.3)

 天正元年(1573)の小谷城の戦いで戦功を上げ、浅井氏旧領の北近江3郡を与えられた。当初小谷城に入った秀吉だが、山城のため領国統治に不向きだとして、今浜と呼ばれる地に新たな居城を築城した。のちに今浜を「長浜」と改め、自身も木下姓から羽柴姓を名乗るようになった。

姫路城
姫路城 天守群(撮影 2015.6.27)

 天正8年(1580)播磨を平定した秀吉は、姫山に中国経営の拠点となる旧姫路城を築いた。秀吉は現在のものより小さな天守をつくり、石垣を築いている。
 慶長6年(1601)徳川家康の女婿となった池田輝政が城に入り、西国外様大名の押さえとするため、姫路城の大改修を実施して、現在見られる姿を完成させた。

2015.6.27 世界文化遺産・国宝 姫路城youtube

大坂城天守
大坂城 天守(撮影 2010.1.8)

 秀吉がかっての大坂(石山)本願寺の跡地に、天下人にふさわしい巨城を築きはじめたのは、賤ヶ岳の戦いの直後のことであった。天正13年(1585)春には早くも大坂城天守が完成。その後も二の丸、総構などの増築が続き、三の丸が完成したのは秀吉死後の慶長4年(1599)のことである。

2010.1.8 大阪城(観光スポットガイド)youtube

石垣山一夜城歴史公園
石垣山一夜城歴史公園(撮影 2000.4.8)

 天正18年(1590)4月、箱根山を越えて湯本の早雲寺に本陣を置いた秀吉は、昼夜兼行で京都聚楽第や大坂城に劣らない築城を命じた。箱根外輪山の木をきり、近隣の岩山から石材を切り出すという勇壮果敢な工事が行われた。こうした秀吉の小田原攻めが、北条軍に与えた影響は大きく、それまで秀吉はたびたび降伏勧告をしてきたが、それに応じなかったさしもの北条氏も、この城が完成して間もない7月7日、ついに小田原城を明け渡し、滅びてしまった。

常泉寺 豊臣秀吉公像
常泉寺 豊臣秀吉公像(撮影 2012.2.12)

 豊国神社の約100m東に常泉寺(日蓮宗)がある。太閤山と号し、慶長年間(1596~1615)に加藤清正一族の円住院日誦上人が創建したという。境内には、秀吉誕生のときに使われたと伝えられる産湯の井戸や秀吉の手植えと伝えられるヒイラギ(柊)がある。

週末ウォーキング