平日の朝でもあり、神宮を訪れる人はまばらである。拝殿手前には「皇孫御誕生慶祝の記帳所」があり、妻が記帳をしてした。
「宮崎神宮(祭神日本磐余彦尊)は、古くは神武天皇社・神武天皇官と称し、崇敬されてきたが、中世には土持氏・伊東氏・島津氏、江戸時代には有馬氏や内藤氏によって社領の寄進や社殿の修復が行われた。明治6年(1873)に宮崎神社と改称し県社に、明治18年(1885)には官幣大社に列した。大正2年(1913)に宮崎神宮と改称された。神武天皇ゆかりの神社として、戦前は神武天皇東征二千六百年祭を行うなど国家的行事の中心となった。現在は宮崎観光の拠点として、広大な緑地は市民の憩いの場として親しまれている。」(※)
「平和の塔は、日名子実三の設計で、御幣をかたどった37mの塔の正面には、秩父宮染筆の「八紘一宇」の文字がきざまれ、四隅には荒御魂武夫・和御魂商工人・幸御魂農夫・奇御魂漁夫の陶製4神像が配された。国内だけでなく世界各地の日本人会などから寄せられた石材で築かれ、1つ1つの石にその地名がきざまれている。公園の入口附近で近くの幼稚園の子供達と一緒になり、平和の塔やはにわ園でも同じ行動!ワイワイと喋りながら歩く子供達の可愛らしさに一瞬見とれてしまう。」(※)
広葉樹林と、スギやヒノキに囲まれ市街地を一望できる標高60~80mの台地上に、平和台公園がある。宮崎を代表する観光地の1つであり、遊歩道やスボーツ広場が整備され、市民の散歩やレクリエーションの場としても親しまれている。
塔の北側にははにわ園があり、日本の各地から出土した埴輪や土器の複製が戸外におかれている。また、園内にあるはにわ館には、縄文から古墳時代までの遺物を展示している。子供達は元気よく「はにわ園」から広場へ、向かって行ったので子供達とはここでお別れ。車に戻り、ここから次の目的地の高千穂峡までは随分と長い距離である。
宮崎から国道10号を日向市に向かって北上するが、一般道路なので予想時間以上にかかった。日向市を通り過ぎた辺りから国道389号の山道に入ったが、その先は道路工事中や車のすれ違いも厳しい箇所もあり結構苦しむドライブが続き、唯一の頼りがカーナビの案内である。
「高千穂峡は、川に削られた谷に阿蘇山の噴火による火砕流が流れ込んでできた台地が、さらに川によって浸食された渓谷がある。これが高千穂峡(別称 五箇瀬川峡谷)である。岩肌に裂け目(柱状節理)をもつ断崖は高さ80~100mもあり、その柱状節理の不整合な部分からわきでる水が、真名井の滝となって五箇瀬川にそそぎ込む。とくに新緑・紅葉の季節の景観はみごとである。北原白秋と若山牧水歌碑がある。
北原白秋歌碑
ひく水に 麻のをひてて 月まつは 活き河原の天地根元作りの家
若山牧水歌碑
幾山河 こえきりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」(※)