「秋田藩主佐竹氏が十二代約270年にわたって居城とした久保田城跡を、明治期の造園家長岡安平の設計によって整備した近代公園である。公園整備は、本丸御殿の御池や城内の土塁・通路などの遺構を活かして行われ、明治30年(1897)に近代的な城跡公園とて千秋公園が完成した。長岡は、その後も城跡公園などの設計を多数行ったことから、近代公園の先駆者と呼ばれている。」(※)
秋田市出身の戦前を代表する東海林太郎の銅像が立つ。つねに直立不動で歌い上げ、「赤城の子守歌」「国境の町」「野崎小唄」などで人気を博した。胸像の前に立つと、東海林の歌声が聞こえる設計となっている。
若山牧水(宮城県東郷町出身)は、旅と酒をこよなく愛した漂白の歌人である。当然、酒のくに・秋田にも大正5・6年の2回、足を運ばれ、数首を詠まれている。この酒の取り持つ縁で平成7年10月、秋田ライオンズクラブの篤志によって「千秋公園での一首」が歌碑となった。
「表門は久保田城本丸の正門で、一の門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。」(※)
御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属する役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び情下の警備を担当した。御番所の南側14畳の部屋に物頭が勤めて賛城者を監視した。北側には7畳半の休憩所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。
「近代秋田を開いた秋田藩最後の十二代藩主佐竹義堯公を敬慕する旧家臣が中心になり、戊辰の役後50年にあたる大正4年(1915)公の銅像をここに建立した。遺憾ながら、この銅像は太平洋戦争のさなか、国の金属回収策のためその姿を消してしまった。市民有志はこれを惜しみ、昭和28年(1953)旧銅像の原型として残されていた小形像を泰安してわずかに往時を偲んでいた。」(※)
八幡秋田神社は初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る。県の有形重要文化財であるが、平成17年1月9日の放火により社殿を焼失した。その後、平成20年12月に再建された。彌高神社は明治42年(1909)に、国学者平田篤胤、経世家佐藤信淵の両大人を祀る神社として創建され、大正5年(1916)現在地に移築したものである。
平成14年(2002)4月26日、大賀ハスの品種保存に力を入れている蓮文化研究会理事長印南洋造氏のご厚意により、蓮根ほ6株譲り受け、純粋を保つため鉢植えにし、この胡月池で栽培している。
「久保田城は、秋田市内を流れる旭川沿いに南北にのびる神明山に築かれた平山城である。慶長7年(1602)、常陸から転封になった佐竹義宣は、秋田氏の居城だった土崎湊城(秋田市)に入城する。土崎湊は港湾としての便利性はあるが、広大な佐竹領の本拠とするには不向きなため、新たに神明山を選び、翌年から築城を開始した。その後、佐竹氏代々の居城となり、明治維新を迎える。神明山の台地に、壮大な空堀を設け、本丸、二の丸、三の丸を配置する縄張。石垣の使用は一部に限られ、壮大な土塁・空堀の巡る旧領常磐の中世城郭と似た構造となる。」(※)