若葉旅館は、米出しの運河として知られる新井田川越しに、山居倉庫群を望む閑静な場所に佇む。料理は庄内平野で栽培された庄内米と野菜、日本海で獲れた句の魚介類などを使った季節の献立が楽しめる。
「小林綾子さん(左)と泉ピン子さん(右)。貧しい小作農に生まれた女性が、時代の荒波を生き抜く姿を描いたNHK朝の連続テレビ小説「おしん」は、昭和58年4月から放映され、視聴率62.9%と史上最高を記録し、その後世界60ヶ国で上映され今も続いている。酒田ロケーションでは、スタッフ・キャスト全員若葉旅館に宿泊し、小林綾子さんは何度も泊まっている。」(※)
明治26年(1893)に建設された米の保管倉庫で現在も農業倉庫として使用されている。ケヤキ並木とともに12棟が立ち並ぶ景観は、米どころ庄内のシンボルとして有名。1棟は庄内米の歴史を紹介している「庄内米歴史資料館」、2棟が観光物産館「酒田夢の倶楽」として公開されている。
このケヤキ並木は、日本海からの強風(西風)と夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の温度変化を少なくする目的で植えられたもので、現在41本残っている。山居稲荷神社は、明治26年倉庫をこの地に建設するとき、旧藩主酒井家の太郎稲荷及び徳川家の禎祥稲荷の二柱を勧請して従来から鎮座せる。山居稲荷神社に合祀して、山居稲荷神社と改名し、倉庫鎮守の神とした。
井原西鶴が『日本永代蔵』で酒田の町の大問屋として「北国一番の米の買入問屋となり、惣左衛門という名を知らぬ者はない」と紹介した。本町通りの廻る船問屋は97軒である。現在の建物は弘化2年(1845)焼失直後の再建で、商家の面影がよく残っている。
酒田の典型的な町屋造りである。その素朴なたたずまいは、華美になることを慎んだ酒田商人の気概を感じさせ、また、形式的な古さをも伝えている。屋根は、この地方特有の石置杉皮葺尾根の形式を残している。台所付近の屋根構造は、下地に茅を敷き、その上に土を載せ、杉皮を葺いて、直径15~6cmの平たい石を屋根全面に敷き、杉皮を止めている。杉皮は幅1尺2寸、長さ2尺の大きさで、3分の2を重ね、全体として3枚重ねにして厚みを保たせている。
「明治5年(1768)三代光丘が幕府巡検使の宿舎として、旗本2000石の格式で建造した武家造で、のちに本間家が藩主から本宅として拝領し住み続けた。南に長屋門、東に薬医門を開き、南東隅に屋敷神の七社ノ宮がある。母屋は桟瓦葺の平屋書院造で、南北桁行33.6m・東西梁間16.5 m、間数22である。市内最古の木造建築とみられ、酒田大火でも無事である。」(※)
三代本間光丘が天下泰平五穀豊穣酒田繁栄のために明治3年(1766)各社の神霊を勧請し建立した。
本間家本邸の向かい側にある「お花」は本間家が代々商いを営んだ場所。使用された帳場やハカリなどを展示している。
「日和山公園東方、鳥居に並ぶ天明8年(1788)建立の随身門をぬけてほどなく、太鼓橋を越えると日枝神社が鎮座している。社殿は天明4年(1784)に本間光丘が寄進造営したものである。酒田の総鎮守として下の山王宮とよばれ、浜田2丁目の上の日枝神社とともに、5月20日の祭礼は酒田祭として親しまれてきた。映画「おくりびと」の撮影ロケーションとして、ここ旧割烹小幡は「NKエージェント」の社屋という設定で使われた。」(※)
市内北西部にある日和山を主体として公園。「日和山」の名は船頭衆が朝夕に日和を見た丘に由来する。広大な園内には河村瑞賢像・木造六角灯台・方角石・旧白崎医院などの歴史的遺構や建造物、芭蕉、斉藤茂吉など酒田を訪れた文人墨客の文学碑が点在する。
鶴岡よりも俳諧が盛んな酒田で芭蕉は、地元の人々から温かいもてなしを受け、句会を催した。酒田の浦役人の1人、寺島彦助宅の安種亭で句会が開かれた。
芭蕉句碑「暑き日を 海に入たる 最上川」(秋田)
芭蕉句碑「あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ」(秋田)
清遠閣は、茶室「六明廬」を備えた上座敷・下座敷は、藩主が領内巡視の折度々来臨された所、柱は檜の四方柾、床の間の脇床・違棚は欅の玉杢を用い、京風の精緻な造りとなっている。明治末一部二階建てに改装、手漉きガラス窓や御座所のシャンデリアなどに大正ロマンが偲ばれる。
鶴舞園は、鳥海山を借景に、蓬莱島を中心とする回遊式庭園は、島の松に鶴が飛んできたことから酒井候によって「鶴舞園」と名付けられた。