「約2600年前に鳥海山から噴出した泥流で広く覆われていたが、海水の浸食により泥層が削られて、多数の岩島が分離して残り、東西約2km・南北約3kmの範囲に、大小多くの潟湖ができた。マツの生い茂る多くの島々が浮かび、八十八潟・九十九島とよばれた。元禄2年(1689)にこの地を訪れた松尾芭蕉は、「松島は笑うが如く、象潟は憾むが如し、寂しさに悲しさを加えて、地勢魂をなやますに似たり」と記した。ところが、文化元年(1804)の象潟地震(M7.1)で、海底が約2.4m隆起したため、象潟は一夜で陸地化して、小丘や沼の点在する湿地となった。」(※)
芭蕉句碑「象潟や 雨に西施せいしが ねぶの花」(象潟)
元禄2年(1689)にこの地を訪れた芭蕉は、象潟の畔に咲くネムの花が雨に濡れそぼった情景を、中国春秋時代の美女西施にたとえて、句を詠んでいる。
山門は、建造年代は不詳であるが、江戸時代中期と推定され、矢島藩主生駒家から寄進されたと伝えられる仁王像が納められている。扁額には、「法海法窟」と記されている。
「皇宮山蚶満寺(曹洞宗)。仁寿3年(853)、天台宗の慈覚大師(円仁)の開創と伝えられ、のちに真言宗に転じ、サンスクリット語で不動明王を意味する「カンマン」を寺号とし、京都の御室御所(仁和寺)から「蚶満」の額を受けたという。また、五代執権北条時頼(最明寺入道)が寺領を寄進したとの文書を伝え、現在まで寺紋に、北条家の家紋である三ツ鱗紋を使用している。」(※)
宝暦13年(1763)の建立、芭蕉翁は元禄2年6月16日当地に到り「象潟や 雨に西施が ねぶの花」など三句を残している。
かって、象潟橋から眺める九十九島と鳥海山は「象潟八景」の一つと言われていた。最初に橋が架けられたのは慶長8年(1603)のことで、その後の元禄2年(1689)に芭蕉と曾良が「奥の細道」の旅でここを訪れている。欄干橋(象潟橋)のたもとに立つ道しるべの石柱は、昔象潟川をさかのぼってきた和船が綱をかけて、船を停めるに利用したところから「船つなぎ石」と愛称されるようになった。
三崎峠は、遊佐町と象潟町の中間に位置する峠。鳥海山の裾野が日本海に落ち込み、すさまじい断崖となっていて、江戸時代、秋田県南部沿岸の由利地方と庄内地方を結ぶ羽州浜街道の第一の難所である。現在は。三崎公園として整備されているが、海沿いの険しい台地上に旧道が今なお残る。
吹浦横町にある海禅寺21世寛海和尚が、禅風の普及と海難事故による諸霊の供養並びに航海安全を祈願して、元治元年(1864)から遊佐町高瀬や酒田の石工に彫らせたものである。22本の磨崖仏は5年の歳月を費やして明治元年(1868)に完成したが、寛海は1971年、71歳でおのれの身を海に投じ、羅漢石にその魂を託した。
芭蕉句碑「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」の句は、酒田で詠まれたものだが、北の吹浦から南の温海岳(あつみ山)までが庄内と呼ばれる地域であることを踏まえたものである。昭和15年に建立された。漾人句碑「吹浦も鳥海山も鳥曇」がある。