こりすのトトちゃんは、平成2年(1990)に大宮市制50周年を迎え、記念のマスコットとして決定されました。自然と環境、人々のあふれる、出会いを、大切にしながら、発展する大宮のシンボルとして地元の多くの関係者により制作されました。
すずらん通りは、江戸時代寛永5年(1628)より中山道の大宮宿として、大宮宿には25軒の旅籠があり、この大門町には6軒があった。その中でも、この地にあった本陣は一番最初のもので格式があり、将軍様や大名が宿泊する旅籠である。
「二の鳥居は、木造では関東一の高さを誇る大鳥居である。
三の鳥居をくぐると氷川神社の境内である。武蔵国総鎮守で、『延書式』神名帳に大社として記載された。氷川神社は、出雲国簸川の杵築大社を移したといわれる農耕神で、もとは広大な見沼(御沼)を神池そのものとみたて、大宮区高鼻の氷川神社を男体宮とし、線区宮本の氷川女体神社を女体宮、その中間点にある見沼区中川の中山神社(通称中氷川神社)を簸王子宮とする、三社一体の壮大な規模をもつ社であったという。現在の大宮氷川神社境内の神池は、見沼の名残りだといわれる。」(※)
末社・松尾神社には、大山咋(おおやまくい)命が祀られている。
二千年以上の歴史をもつといわれ、大になる宮居として大宮の地名の由来にもなった日本でも指折りの古社である。
「中世には初代将軍源頼朝・執権北条氏・初代将軍足利尊氏・岩槻太田氏・小田北条氏ら武将たちの篤い尊崇をうけ、江戸時代には徳川家康から社領300石と神輿1台を寄進されていた。その後、明治時代初めの神道政策で、三社一体だった氷川神社は、男体宮を本社、その他を摂社・末社と区別され、また神仏分離の方針により社内にあった観音寺は満福寺(さいたま市北区日進町)に移り、氷川神社は大きく改変された。本社の大宮氷川神社は官幣大社とされ高い格式をもち、毎年の祭礼には勅使が下向し、明治天皇も3度訪れている。」(※)
末社・稲荷神社には、倉稲魂命(うかのみたま)が祀られている。
摂社・宗像神社には、宗像三女神(むなかたさんじょじん)が祀られている。
力石と云って昔力自慢の若者たちが、これを担いで御本殿の回りを一周して見事に担ぎ、おほした者が姓名を刻んで御神前に奉納したものと云われる。
摂社・天津神社には、少彦名(すくなびこな)命が祀られている。