鷲林山常在寺(日蓮宗)は、宝徳2年(1450)土岐氏守護代の斎藤妙椿が、京都の妙覚寺世尊院の僧、日範を招いて開設したと言われる。
「六道とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという。死後にこの6つのうちのどこかの世界へ落とされ、グルグルと魂が6つの世界を回り続けることになる。
天道 天人が住む世界である。
人間道 人間が住む世界である。
修羅道 阿修羅の住む世界である。
畜生道 牛馬など畜生の世界である。
餓鬼道 餓鬼の世界である。
地獄道 罪を償わせるための世界である。」(※)
初代当主斎藤道三は、妙覚寺の僧であった父長井新左衛門尉が美濃国に来て築いた地位を基盤として、斎藤氏を名のるまで勢力をつけ、さらに土岐氏をも滅ぼして美濃国主となった。道三は常在寺を改築し、寺領として領下、日野、芥見などを与えて保護した。
肖像画は、絹地に着色して上畳に端座した姿を描いたものである。道三像は痛みが著しく鮮明さを欠いているが、眼光の鋭さに精悍に性格が感じられ武将の気迫がよくあらわされている。道三の娘(濃姫)、織田信長北の方の寄進とされている。
二代当主斎藤義龍は道三の子であるが、やがて父を長良川の戦に破り美濃国を支配した。その後信長から美濃国を守り抜いたが35歳で病死した。
○道三公の人間像について
悪名高き道三としてよく知られているが、晩年の道三は決してそうでない。弘治2年(1556)4月19日長良川合戦において敗戦を予期してか、遺言状を認めている。現在京都妙覚寺(昔は当山の本山)に所蔵されているが、その内容は
一、娘むこの信長に美濃国を譲る。
二、残っている二人の子息について武士を捨てて寺に入ることのすすめ、遺言状通り寺に入り当山第五世、第六世の上人がそれであり、旧過去帳に明記されている。
三、自分自身のことを記し、今すべてのものを失うに当り、信ずべきものは「この世の中」であると。