「常在寺を束にいくとすぐに、正法寺の朱塗りの大仏殿がみえる。この大仏殿には、「籠大仏」(附胎内仏)の名で知られる釈迦如来坐像が安置されている。京都宇治黄葉山万福寺の末寺である。第十一代惟中和尚は、歴代の大地震および大飢餓の災霊の祈願をたて、奈良東大寺大仏の聖徳を敬って、ここに大釈迦如来像を建立した。」(※)
「大人一抱えほどもある太いイチョウの木を真柱にして木材で骨格をつくり、その外側をこまかく編んだ竹材で形を整えている。さらに表面を粘土で塗り固めて一切経などの経文を貼り、その上に漆を塗って金箔をほどこしたもので、高さは13.6m、奈良大仏や鎌倉大仏と比肩できるほどの大きさで、日本三大大仏と称されている。」(※)
江戸時代末期、地震や飢饉による犠牲者の供養のために発願され、2人の住持が約40年にわたる喜捨行脚を行って完成させたもので 提灯や和傘など 竹と紙を使った岐阜の特産品の技術が随所にいかされた仏像としても価値がある。なお、胎内仏は薬師如来坐像である。
惟中和尚は、正法寺の門徒が少なく各地を托鉢して、遠くは信越地方まで、ひたすらに経本の喜捨に歩いた。善業二十五年、文化12年(1815)7月22日建立なかばにして没した。
第十二代肯宗和尚は師の志をよく継ぎ、天保3年(1832)4月、苦業十三年二代にわたる実に三十八年の歳月を費して、ここにようやく大釈迦如来像を完成した。大仏の開眼供養には、尾州候の使者を賜わり、織田信長の居城以来の盛儀であったといわれる。
おびんずる様は、お釈迦様のお弟子である十六羅漢の第一の人である。