大磯旧吉田茂邸 見学
(大磯)

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大磯駅(JR東海道本線)~旧吉田茂邸~旧大隈重信邸~旧陸奥宗光邸~旧伊藤博文邸大磯駅(JR東海道本線)

mark旧吉田茂邸(きゅうよしだしげるてい)
入口
入口
内門(兜門)
内門(兜門)

 内門(兜門)はサンフランシスコ講和条約締結締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」ともいわれる。軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれいる。

日本庭園
日本庭園(公園・庭園)

 昭和36年(1961)頃に完成した日本庭園は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園がある。庭園設計者である中島健は、数寄屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好をふまえ、様々な草花やツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭づくりをおこなったと考えられる。

心字池
心字池
ツワブキ
ツワブキ

 心字池の中央に浮かぶ中島は吉田茂邸に向かう亀の姿となる亀島で、背中には十三重の層塔を背負っている。

吉田茂銅像
吉田茂銅像
吉田茂肖像画
吉田茂肖像画

 戦後日本の憲法・政治・外交・社会体制すべて、吉田茂内閣の手によって整えられた。特に日本を敗戦占領下からとき払し、日本に独立をもたらしたサンフランシスコ平和条約は、吉田首相が昭和26年(1951)9月に、実らせた。

 銅像付近からは眺望が良く、富士山、伊豆半島、相模湾などを一望できる。相模湾に面して富士山を臨むこの場所で穏やかな日々を過ごし、昭和42年(1967)に89歳の生涯を閉じた。

七賢堂
七賢堂
相模湾
相模湾

 「明治の元勲伊藤博文が、大磯町の自宅「滄浪閣」の敷地内に明治36年(1903)に建築した9尺四方の大きさのお宮風の木造建物「四賢堂」が始まりです。「四賢堂」は、伊藤博文が日頃から尊敬していた、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通の4人の写真を堂内に掲げ祀られたため「四賢堂」と呼ばれた。
 伊藤博文没後には伊藤博文の写真が掲げられ「五賢堂」と呼ばれた。
 昭和35年(1960)には吉田茂がこの地に移設し、西園寺公望を合祀し、吉田茂本人も死後に合祀され、現在の「七賢堂」となった。正面の扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相の揮毫によるものである。
」()

旧吉田茂邸
旧吉田茂邸

 旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂が暮らしていた邸宅で、もとは明治17年(1884)に吉田茂の養父・吉田健三が大磯の土地を購入し、その地に別荘を建てたのがはじまりで、養父亡きあと財産の一部として吉田茂が邸宅を引き継いた。昭和20年(1945)より吉田は大磯の邸宅を本邸とし、晩年をこの地で過ごした。
 平成21年(2009)3月、本邸が火災で焼失した。その後、神奈川県が公園整備を行い、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建され、平成29年(2017)4月1日より一般公開されている。

楓の間(応接間)
楓の間(応接間)

 応接間として使われており、吉田の執務机やソファーセットがある。

掘り炬燵のある書斎
掘り炬燵のある書斎
書斎
書斎

 書斎は吉田茂の私室で、限られた身内以外は許可なく入れない吉田の私的な部屋です。

書斎(北西縁)からの眺め
書斎(北西縁)からの眺め

吉田茂の白足袋オブジェ
吉田茂の白足袋オブジェ
礎石広場
礎石広場

 「連合国軍最高司令官(GHQ)のダグラス・マッカーサー元帥からの要求を聞きながら、日本の意志もつらぬくという、アメリカの支配を受けながらも、日本の独立と復興への道しるべを作り上げた総理大臣である。そんな吉田茂の「威厳のシンボル」が「葉巻と白足袋」である。
 礎石広場は、平成21年(2009)に焼失した再建前の家屋の土台部分にあった礎石を置き、当時の面影を残している。
」()

金の間(居間)
金の間(居間)

 金の間は賓客をもてなす応接間で、箱根の山々と富士山、相模湾を一望できる。

金の間より富士山を臨む
金の間より富士山を臨む
銀の間(寝室)
銀の間(寝室)

 銀の間は寝室として寝起きをしていた部屋で、この部屋のベッドで吉田とその生涯を終えた。金の間と対になる形で、銀の間には装飾品に銀を使用しており、名称の由来となっている。

ローズルーム(食堂)
ローズルーム(食堂)
食堂からの庭園の眺め
食堂からの庭園の眺め

 今日は日曜日であったので、観光バスツアーの方も多く、一般見学をされていた。

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