本年は明治元年から満150年にあたることを記念し、旧大隈重信邸や旧陸奥宗光邸等の庭園の観覧、邸宅のガイドツアーとともに、明治期の立憲政治や各邸宅の人物にゆかりのある資料の展示が行います。(※期間 2018年10月23日~12月24日まで)
「大隈重信は、佐賀藩主の長男として生まれた。地元で儒学、国学、蘭学、英語などを学んだ後は、京や長崎で尊攘運動に身を投じた。新政府では参議大蔵卿となる。東京専門学校(現、早稲田大学)を設立したことでも知られている。」(※)
伊藤博文が大磯に滄浪閣を建てた翌年の明治30年(1897)に大隈重信は、大磯に別邸を建設した。大隈候がこの別邸を使用したのは古河市兵衛に譲渡するまでのわずか4年間である。住居部分はほぼ往時のまま現存している。
明治天皇から伊藤博文に下賜された杉戸絵。皇室の御用絵師・湯川松堂による2組の杉戸の表裏に「源義家後三年の役」「野見宿禰の相撲」「静香御前の舞」などが描かれている。(株式会社 渓泉 所蔵)
神代の間の和室は、神代杉(※千年以上もの長い間地中(火山灰)や湖底に埋もれていた杉を神代杉と呼ぶ)をふんだんに使用し、床の間には欅の一枚板と竹の床柱がある。
神代の間のガラスは、明治の頃、板ガラスは西欧で行われていた大型手吹き円筒法という製造方法が用いられていた。平らな板ガラスに歪みができ、外の景色がゆがんで見える。
「陸奥宗光は天保15年(1844)、紀州藩藩士の六男に生まれる。15歳のとき江戸に出て学ぶ。坂本龍馬とは神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と行動を共にした。明治維新後は外国専務局御用掛や兵庫・神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任した。」(※)
二間続き(10畳・8畳)の広い「応接間兼主人室」がある。三方が縁側に囲まれた明るい部屋で南側(海側)は日本庭園を見下ろす景色が広がる。
床の間には、敷地内の日本庭園の滝を描いた巨匠・横山大観の掛軸が掲げられていた。
日墨修好通商条約は、明治21年(1888)、日本とメキシコの間で結ばれた条約。相互の通商航海の自由・安全を保障し、治外法権を認めない平等条約である。
伊藤博文は、明治18年(1885)12月初代内閣総理大臣に就任。44歳という若きで就任はいまだ破られてはいない。その後、第5代、第7代、第10代と4度も内閣総理大臣を務めた。明治33年(1900)に自ら「立憲政友会」を結党し、初代総裁も務めた。
小田原市に別邸を新築し、それを「滄浪閣」と名付け、明治29年(1896)まで小田原で過ごしていた。明治29年(1896)大磯の別邸が完成すると小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別邸を滄浪閣と名付け、明治30年(1897)には本籍を東京から大磯町に移したことで滄浪閣は別邸から本邸となった。
伊藤公没後、滄浪閣は養嗣子の博邦に相続されるが、大正10年(1921)に伊藤家が東京に転居することになり、滄浪閣は旧李王家別邸(旧李王家東京邸)として使用されるようになった。