西の丸の南門跡は、高麗門で坂道の真ん中に約40cmの正方形の礎石が残る。
西の丸も西側から北側にかけて長大な多門櫓(別名は百聞廊下で、一部を除き現存)が囲っているが、そのうちの北側の多門櫓(カの渡櫓・ヨの渡櫓)は内部を御殿女中の住まいとする長局である。そしてその東端には、一段高く化粧櫓が奪える。化粧櫓の内部は眺めの良い座敷である。
「姫路城の築城の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、元弘元年(1331)赤絵則村(円心)が、北条氏追討の兵をあげて東上の途中、砦を築いたのにはじまり、戦国時代にはいって羽柴秀吉が3層の天守閣の城を築き、江戸時代に城主になった池田輝政が、慶長6年(1601)から8年の歳月をかけて、秀吉の築いた城を取りこわして大修築を行った。」(※)
西の丸南西を固める二重櫓で、カの櫓が榎下門、ワの櫓は鷺山口門を頭上から守っていた。ともに隅角に石落を配し、狭間が多数設けられたいた。カの櫓とワの櫓の櫓間は土塀、ワの櫓北方に百間廊下(多聞櫓)が接続していた。
西の丸にあった御殿は消滅したが、ルの櫓と化粧櫓間にある長局(百間廊下)は現存している。
ルの櫓と化粧櫓間にあるヌの櫓は、両側にカの渡櫓とヨの渡櫓がつながっている。