「天守は外観五重・内部六階・地下一階で、高さ約20mの石垣上に約31.5mの建物が載っている。一重目の正面幅は約24mで、奥行きは約18mの広さがあり、ほぼ同じ大きさの二重目が載る。二重目の屋根が巨大な入母屋造の大屋根であり、その上に、三重の望楼(大屋根の上の物見)を載せた望楼型天守である。分厚い土壁の表面に白漆喰を塗り、屋根瓦の継ぎ目にも漆喰を塗って仕上げるなど、華麗な白い天守になっている。」(※)
姫路藩初代藩主は本多忠政である。
向御屋敷は藩主が政務から離れて寛ぐための別邸(下屋敷)であったが、敷地面積は御居屋敷に等しく広大である。その広い敷地の西表には約120mにも及ぶ長大な長屋が建てられ、そこに表門として長屋門が開かれていた。
菱の門の壁は柱を見せた真壁造とし、鏡柱上部の冠木に木製の花菱(四つの花弁で菱を形作る文様)を飾り、二階に華頭窓、黒漆塗の竪格子には飾り金具を打ち付けるなど、外観も極めて優美な姿とし、格式をもたせている。
カの櫓は西の丸の南東隅に位置する。ワの櫓と土塀で結ばれ、本城(三の丸西側の砲居城)を上から見守った。
「姫路城は、東西に並ぶ姫山と鷺山という小丘陵を中心に築かれた平山城である。姫山の最高所に天守を建て、そこから低い位置に本丸・二の丸などが階段状に配されている。一方、鷺山の広大な平坦面には西の丸が置かれた。天正8年(1580)播磨を平定した豊臣秀吉は、姫山に中国経営の拠点となる旧姫路城を築いた。」(※)
現存する櫓の中で特に注目されるのが西の丸北東隅に位置する化粧櫓で、本多忠刻に嫁いだ、徳川秀忠の娘千姫のために造られたという伝承が残る。北側3間分は石垣が一階部分にまで築かれていて部屋部分は二階のみであり、その南側4間が二重二階となる。その北西に斜めに突出した部屋がつく特異な建物である。
菱の門を抜けて最初にあるのがいの門で、城門15が国重要文化財になっている。大手門から天守まで直線距離では約1.7kmだが、その通路は複雑に折れ曲がり、その間実に10か所以上の門を通過しなければならず、実際の歩行距離は優に2倍を超える。
天守と西小天守をみながら白い土塀を沿って坂をあがると、はの門がある。門の二階からは菱の門が見渡せたということで、緊急時の監視体制は万全だった。
にの門は正面から見ると小規模な櫓門であるが、実は続櫓(櫓門に付属する小さな櫓) 及び隅櫓(曲輪の隅に建てられた櫓)と組み合わされた複雑な構造をもつ。門の下は地下道となり、石段を上りながら右に折れると二の丸乾曲輪へと至る。城内一工夫が凝らされた門であろう。
ほの門をくぐると、いよいよ天守群のある本丸だ。門の内側は、それまでの白壁とは異なる土壁。秀吉時代のものといわれる。粘土と砂利を混ぜて造った油塀である。
老婆が築城工事の時に 秀吉に献上した石臼(姥ヶ石)で、金網で囲われて保護されている白い石である。
水の二門の軒丸瓦には、姫路城は城主がよく変わったので家紋の種類も多い。池田氏の「揚羽蝶」、「五三の桐」などの家紋が見られる。
昭和の大修理前、本来の東大柱の中心線から東南方向ら約37cm傾いていた。江戸時代の初めは、大柱そのものが建物の重さなどで歪んで変位したが、次第に建物全体が傾いていたため、多くの支柱を入れて補修をしていた。
六階は他の階とは異なり、全体に座敷風の意匠になっている。刑部明神は姫路城の守り神と伝えられる姫君の妖怪。
本丸御殿があった広場の現状は、北側を天守群とその東に続く折廻櫓・備前門で囲われ、それを除く3方は郭の緑に堤防状の低い石垣を築いている。明治の火災焼失以前は、その低い石垣に片足を掛けたような恰好で多門櫓が建て巡らされていた。
天守と東の小天守・乾小天守を二重の渡櫓で結ぶ連立式天守。南側が天守の正面となる。白漆喰総塗籠の純白の外壁が、天守の崇高さを引き立たせている。
備前門は折廻櫓に続く切妻の櫓門で、備前丸への重要な出入口となる城門である。築城の際、石不足であったため、門のすぐ脇には石棺が転用されている。
太鼓櫓は上山里曲論と東曲論を区切る要所にある。北に接するりの門からは「慶長4年(1599)」の墨書が見つかっており、池田時代以前の建物の可能性がある。
上山里曲輪の中央の井戸は「お菊井戸」と呼ばれ、有名な怪談「番長皿屋敷」のモデルとなった伝承が残る。