「槍ヶ岳開山の祖播隆上人(天明6年(1782)~天保11年(1840))は幾多の苦難をのりこえ文政11年(1828)7月20日、その山頂をきわめた。日本アルプスの命名者イギリス上ウィリアム・ガウランドの登頂(1878年7月28日)に先だったこと50年、まさに近代アルピニズムの黎明を開く不滅の業績を遺した。」(※)
特産の落葉高木。花は夏に咲き芳香があり、花序につくへら形の苞が特徴。樹皮から丈夫な繊維がとれる。
青翰堂書店の2階から上の外観が、松本城になっている。
大名町を北へ進むと、城下町松本の象徴である松本城に至る。北アルプスの山々を背景にして、石垣の上にそびえる天守閣は白と黒のコントラストが堀の水に映える。
松本には8世紀末から信濃の国府がおかれた。中世には守護小笠原氏が井川城を本拠に勢力をのばし、一族の武将島立右近に命じて深志城を築かせたと伝えられる。
天文19年(1550)、十九代当主武田信玄が侵攻して信濃支配の拠点とし、3重の水堀や馬出しをつくった。天正10年(1582)、武田氏が織田勢に追われると、小笠原貞慶が失地を回復。深志城を松本城と改称して居城とし、堀や土塁で城を強化して、町人を本町に移住させるなど、城下を整備した。
本丸に入る正門で、櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要である。一の門(櫓門)は昭和35年(1960)に復興し、二の門(高麗門)と袖塀は平成2年(1990)に復元された。
「豊臣秀吉の全国統一に伴って小笠原秀政は関東に移封となり、天正18年(1590)に松本藩初代藩主石川数正が入城した。数正・康長父子は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いまでに5層6階の大天守・渡櫓・乾小天守(いずれも国宝)など、主要建造物を築造している。
その後約50年の間に、小笠原秀政・戸田康長・松平直政・堀田正盛・水野忠清と頻繁に藩主が交代した。」(※)
「新しい天守を建てる際、創建天守の部材は、乾小天守の部材として利用されたようである。こうして乾小天守となった創建天守と新天守が渡櫓で結ばれて並び建つことになった。渡櫓(天守への入口)は、頑丈な扉があり、二階には、天守の瓦や、鍛冶屋が1本1本作った和釘などが展示されている。
寛永10年(1633)、松江藩初代藩主松平直政(徳川家康の孫)が松本に入り、天守が修築される。このとき、辰巳附櫓と月見櫓が新たに付設され、現在見られる5基の建築による「絶妙の均衡美」が完成した。 」(※)
天守には弓や鉄砲を発射する狭間の数が多い。小さい方形のものを鉄砲狭間、長方形のものを矢狭間と呼び、内側が広く外側が狭い。
展示してある鯱は、昭和の修理の際に新しい鯱と替えられたものである。
本丸御殿は天守の完成後の建造で、城主の居所と政庁を兼ねていた。いわば政治の中枢部である。享保12年(1727)に焼失、以降再建されていない。
熊本藩初代藩主加藤清正が江戸からの帰りに松本城に立ち寄った際、城主石川康長は、土産として駿馬二頭のうち一頭を差し上げる旨清正に申し出た。
盆栽花壇は菊の仕立て方、色合い、鉢の配置等を総合的に鑑賞できる。
高麗門の間口は櫓門と比べて狭く、土橋とあわせて一度に多くの軍勢が侵入するのを防ぐ。
天守築造後の文禄4年(1595)頃に石川康長によって築造され、それから270余年後の明治4年(1871)11月、旧物破壊の風潮の中で取り壊されたままになっていた。第2次世界大戦後になって文化財保護の思想が高まり、松本城国宝保存工事、黒門と復興等を経て、平成11年(1993)3年、128年ぶりに太鼓門枡形が復元された。
太鼓門礎石は飯森家は中町の肴問屋で松本藩の賄御用を勤め、その記念として明治維新の際、太鼓門の礎石二個をもらい受け、鏡柱の礎石一個を自宅で保存していた。
切株は。平成8年(1996)~平成11年(1999)に太鼓門が復元された際、櫓内の梁に使用された樹齢140年の赤松の根元である。
本丸御殿焼失後、藩の政庁が二の丸御殿に移され、幕末まで中枢機関とされた。昭和54年(1979)から6年間かけて発掘され、史跡公園として整備され、平面復元された。
本丸北面に見える一直線になっている石垣は、中世の館の形式を受け継いだものと思われる。
松本神社は、郷土発展の神、縁結びの神として信仰され松本城と特別な由緒ある神社である。
松本は古くから地元の人々に愛された井戸水、湧水が随所にあり、「まつもと城下町湧水群」として平成名水百選に選定されている。