彦根城から黒門を抜けて内堀を渡ると、玄宮楽々園である。
十三代藩主井伊直弼は、文化12年(1815)に十一代藩主井伊直中の十四男として彦根城の二の丸で生まれる。
四代藩主井伊直興が、延宝5年(1677)から藩主の私邸(下屋敷)として造営したもので 江戸時代には槻御殿とよばれた。建物部分を「楽々園」、庭園部分を「玄宮園」と呼ばれる。
玄宮園は槻御殿(現楽々園)伴う後園として、江戸時代前期に作庭された大規模な池泉回遊式庭園である。
槻御殿の殿舎群は、そのままの形を留めている。池は魚躍池と呼ばれている。
中央に掘られた池泉には大小4つの中島が築かれ、様々な形式の橋が架けられている。
「開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、嘉永3年(1850)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858)には江戸幕府の大老職となった。同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。この大偉業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって安政7年(1860)3月3日桜田門外で暗殺され46年の生涯に幕を閉じた。
冬桜は、春(4月~5月)と冬(11月~1月)の2回開花する珍しい桜で、昭和47年(1972)4月に水戸市より寄贈された。」(※)
井伊直弼は五歳で母を、17歳で父を失ったので藩の掟に従い300百俵の捨扶持で、彦根城佐和口御門前の公館で、32歳までの15年間を暮らした。「世の中を よそに見つつも 埋れ木の 埋もれておらむ 心なき身は」という和歌を詠み、自らのこの屋敷を「埋木舎」と名付けた。
御居間は「奥書院」「奥座敷」ともいう。上之間、下之間、控の間の三室を主に使用していた。
直弼の青春時代を扱った「花の生涯」は、NHKの大河ドラマ第一号(昭和38年)で放送された。主舞台はここ「埋木舎」である。