「彦根藩初代藩主井伊直政は、遠江国引佐郡井伊谷で今川氏の家臣井伊直親の子として生まれる。天正10年(1582)には井伊直虎の死によって井伊家の正式な当主となり、同年に発生した本能寺の変に乗じて家康が甲斐を攻略すると、武田の旧臣を預けられた直政は、「井伊の赤備え」と呼ばれる武田軍団譲りの朱塗の軍装で統一された部隊を率いることとなった。
いろは松は昔は47本あったところから、いろは47文字の頭三文字をとって"いろは松"と呼ばれた。」(※)
二の丸佐和口多聞櫓は築城時のものは明和4年(1767)に焼失し、明和8年(1771)に再建されたものである。佐和口は敵の直進を妨げるよう、屈曲した枡形の構造となっている。
檜皮葺きの馬屋は、元禄年間(1688-1704)の建造とみられ、城郭内に完全な形で残る馬屋は、全国でも彦根城のみである。
左右対照に配された2重の隅櫓が、天秤のようにみえることからその名がある。長浜城の大手門を移築したとの伝えがある。
鐘の丸は築城当初、鐘楼が当地に存在したため鐘の丸と称すが、鐘の音が城下北方にとどかなかったため、太鼓丸の現在地に移設したという。
時報鐘は、十二代藩主井伊直亮の元化元年(1844)に鋳造したもので。現在は午前6時、9時、正午、3時、6時と1日5回ついている。
鐘の丸から先、天守に通じる最後の城門が、太鼓門及び続櫓である。解体修理時の痕跡調査で、天秤櫓と同様、移築建物であることが判明している。
3重3層地下1階の天守に、附櫓と多聞櫓が連結されている。切妻破風・入母屋破風・唐破風・千鳥破風を組み合せた優美な外観で、花頭窓が最上階だけでなく、2階にも配されているのは非常に珍しい。
「関ヶ原の戦いの勝利で、徳川家康は西軍・石田三成の近江18万石を取り上げ、徳川四天王(直政のほかに本多忠勝、酒井忠次、榊原康政)である井伊直政に与えた。直政は、三成の居城・佐和山城を取り壊し、すぐ近くに新しい城を築くことにする。元和8年(1622)、金亀山に彦根城が築かれた。」(※)
関ケ原の戦いの前哨戦で落城しなかったことから、「目出度き殿守」と賞された大津城の移築との伝えがある。
本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓を「く」の字に付設している。
西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、尾根を断ち切るように大堀切が設けられている。大堀切な掛ける木橋の外にあるのが「馬出し」の機能を持った出郭である。