戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(32.8m)・奥行十四間(25.5m)で。畳数は百五十二畳もあったということです。
脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。本陣と異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができました。
「澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治二(一五五六)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現と勧請したのが始まりと言われています。」(※)
「お天王様と親しまれる八坂神社は、7月14日には、「お札まき」が行われ、たくさんの夜店がたち並び大変な賑わいをみせる。お札まきは、女装してタスキをかけた男子10人位が島田髷をかぶり、着物の裾を短く着て右手にうちわをもち、音頭にあわせて唄をうたい、各所で五色の札をウチワで天に舞わせる。昔は町内にあらだにきた婿が女装したという。」(※)
「平安時代、前九年の役平定のため河内源氏二代目棟梁源頼義・三代目棟梁源義家(八幡太郎)が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久四年(西暦一〇七二年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。」(※)
嘉永2年(1849)、当地の俳人たちによって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられた。
鎌倉を 生きて出てけむ 初松魚
江戸方見附から、約2.2kmの距離にある戸塚宿京方の出入口である。現在は道の両側に1.5mほどの囲いがあり、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。
大坂は、かっては二つの坂から成り立っていたようで、一番坂登り一町余(110m余)、二番坂登り三十間余(54m余)と書かれていた。
大坂上からウイトリッヒの森へ向かう途中に、「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」が建っている。
ウイトリッヒの森は、スイス人のアーノルド・ウイトリッヒさんが、故郷の風景ににていたこの森を生前こよなく愛し、大切に育ててきたもので、この意志を継いだ津田ひ亭(ひで)さんが、昭和60年(1965)、横浜市に寄付されたものである。
田谷の洞窟は、定泉寺の裏に接した丘に、全長1kmにおよぶと思われる地底の人工伽藍で観音霊場や、両界曼荼羅諸像など多くの仏がきざまれている。