散歩コース
池上駅(東急池上線)~池上本門寺~池上大坊本行寺~池上梅園~池上駅(東急池上線)総門は境内の南正面の石段下にあり、広重の『江戸百景』や『江戸近郊八景』、ハイネのスケッチなどで広く知れわたり、江戸期から有名である。様式は素木欅造りで、屋根は切妻、銅板葺、高さ6.4m。68cm角の主柱二本を用い、主柱間は5.29mある。建築年代は本門寺の境域が整備された元禄3年(1690)頃といわれ、当寺に伝存する享保期(1716~36)の古絵図にも登載されている。
石段右側の途中に、立派な河津桜がある。
「此経難持坂は、慶長年間(1596~1615)加藤清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」宝塔品の詩句96文字にちなんで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名とした。
日蓮上人(1222~1282)は鎌倉中期の僧で日蓮宗開祖。安房国に生まれ、若くして天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修行し、仏法の真髄が「法華経」にあるとし、きびしく他宗を排撃したため諸宗・為政者から圧迫を受けた。 」(※)
旧三門は、慶長13年(1608)に二代将軍徳川秀忠が五重塔と共に建立。桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていた。
鐘楼堂は正保4年(1647)、加藤清正の娘でのちに紀伊大納言徳川頼宣の夫人になった瑤林院が寄進したが、その後、正徳4年(1714)、当寺二三世日潤の代に、紀州粉川の鋳物師木村将監藤原安成が改鋳した。都内最大のものである。
日蓮宗大本山本門寺である。本門寺の歴史は鎌倉時代に始まる。法華宗に帰依した番匠(大工)の棟梁、郷土池上宗仲が屋敷を寄進して寺院を建立した。これを喜んだ日蓮上人が、建治2年(1276)本門寺と命名したのが起源と伝えている。
経蔵の建築様式は、木造重層、宝形造り、銅板葺で方五間の輪蔵形式をもち、蔵内に輪蔵の考案者、傅大士の像がまつられている。天明4年(1784)に当寺三四世日謙が再建したもので、内部は心柱を軸に八角形の書棚が廻転する輪蔵書架になっており、そこに天海(慈眼大師)版一切経5000余巻が収めてある。
泰安塔は昭和39年(1964)に大堂が完成した後、しばらくの間は御霊賽収納庫・納経塔などの役割を果たしてきたが、日蓮大聖人立教開宗750年記念慶讃事業「霊賽殿」建立のため、平成11年6月に解体された。
大堂右側にそびえる五重塔は、慶長12年(1607)二代将軍徳川秀忠が母乳岡部局の発願で創建したもので、元禄15年(1702)現在地に移建、宝暦3年(1753)に再興された。1層には十二支彫刻付蟇股(ヘビ・馬・羊など)がある。
宝塔は、宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔。その建立は宗祖550遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政11年(1828)に上棟、同13年(天保元年)に開堂供養を修している。
力道山は大相撲の力士出身。第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。当時始まったテレビ放送の力もあり絶大な人気を誇ったが、裏社会との繋がりも根深く、最期は暴力団構成員に喧嘩をしかけ腹部を刺されて死亡した。
日蓮上人、晩年は甲斐身延山に隠棲し弟子や信者の指導にあたったが、弘安5年(1282)9月8日病の悪化とともに身延山を出発、18日に武蔵国千束郷池上右衛門太夫宗仲の邸(現・本行寺境内)に到着し、10月13日の朝、この場所で入滅した。
池上本門寺の西に位置し、丘陵斜面等を利用した閑静な庭園。戦前まで北半分は日本画家伊東深水氏の自宅兼アトリエで「月白山荘」と呼ばれていたが戦災で焼失。戦後築地の料亭経営者小倉氏が南半分を拡張し、別邸として使用していた。
昭和53年に大田区に移管され、紅梅を中心に植林・拡張(現在9,880㎡)をすすめ、現在では大田区の区花である梅は370本(白梅150本、紅梅220本)を数えるまでになった。毎年1月上旬の蝋梅から3月中旬の八重揚羽まで2ケ月にわたり、30種あまりの梅を楽しむことができる。
散歩コース
池上駅(東急池上線)~池上本門寺~池上大坊本行寺~池上梅園~池上駅(東急池上線)