梅屋敷公園~六郷神社~六郷橋
(梅屋敷~京急川崎)

梅屋敷駅(京急本線)~梅屋敷公園~六郷神社~六郷橋~京急川崎駅(京急本線)
mark聖跡蒲田梅屋敷公園(せいせきかまたうめやしきこうえん)
梅屋敷公園
梅屋敷公園
梅屋敷公園
梅屋敷公園

 梅屋敷は、文政のはじめ頃(1820年頃)、東海道筋で和中散という道中常備薬を商う山本忠左衛門の子、久三郎が、自家の庭つづきに近在から梅樹を集めて庭園をつくり、同時に街道の休み茶屋も設けて酒肴を出すようになったので、見物人や遊興の人々が参集してにぎわったという。街道の両側にまたがり、見事な庭園であった。

白梅
白梅
紅梅
紅梅

 十二代将軍徳川家慶が、鷹狩りの途次に立寄ったり、十四代将軍徳川家茂も文久3年(1863)に上洛の途中に休息しており、幕末の頃は佐久間象山三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などが、風流に託して、ここで国の大事を相談することが度々であったと伝わる。

明治天皇御聖跡地
明治天皇御聖跡地
梅路、梅志の句碑
梅路、梅志の句碑

 明治維新後は、明治天皇や皇族方、大正天皇なども来遊休息された。昭和3年(1928)、東京市に寄附されて一般公園に指定公開され、戦後都から区に移管、区の小公園として現在も利用されている。
 句碑は、弘化3年(1846)山本久蔵が梅路と号し、建立したものである。

mark六郷神社(ろくごうじんじゃ)
神門
神門
神橋
神橋

 神門は神橋を前にした切妻造で、左右に透塀を連ねて玉垣をめぐらしている。神橋は梶原景時の寄進と伝えられている。

社殿
社殿

 社伝では天喜5年(1057)に源頼義、義家の奥州征伐の際、当社の老杉に白旗をかけて勝利を祈り、凱旋後その報賽のために当社を建立したという。

拝殿
拝殿
本殿
本殿

 源頼朝は石橋山合戦に敗れて房総に落ちのび、再び大軍を率いてこの六郷の地に渡海して御幡を立て、ここを根拠地として鎌倉に上った故地として、勝利ののち鶴岡八幡宮を勧請したと伝える。

手水舎
手水舎
境内社
境内社

 手水舎は、この地で1000石を領した旗本高木氏が当社に寄進したものである。

狛犬
狛犬
狛犬
狛犬

 江戸中期以降、造立願意は「現世利益」とするものが多くなるが、この狛犬は「二世安楽」を祈った中世的なものであり、注目される。また造形的にも他に類例を見ない独創的なもので、素朴かつユーモラスな芸術性に富んでいる。

旧六郷橋の親柱
旧六郷橋の親柱
東海道跡
東海道跡

 慶長5年(1600)に徳川家康が架設した「六郷大橋」は貞享5年(1688)の洪水により流失して以来、六郷と川崎間の渡河は186年間の長きにわたり渡し船であった。この木柱は明治30年(1897)に架け替えられ、京浜電気鉄道(現、京浜急行)へ売却、人と共に電車が木橋を渡った。
 社殿正面の道が、慶長6年(1601)に幕府の判定した古い東海道で、松並木が続いていた。これが西方に付け替えられたのは元和9年(1623)といわれている。

mark六郷橋(ろくごうばし)
旧橋の親柱
旧橋の親柱
旧橋の親柱
旧橋の親柱

 木造橋の鉄橋への架け換え計画は、大正3年(1914)に始まり、大正14年(1925)に開通した。タイドアーチ式の近代的なものでその長さ446m、幅16.4mにおよぶ長大橋であった。しかし、交通量の激増、車輛の重量化に対応できなくなり、昭和60年(1985)、新六郷橋が架橋された。六郷橋脇の宮本台緑地には、旧橋の橋門と親柱がそのまま保存されている。

六郷橋
六郷橋
明治天皇六郷渡御碑
明治天皇六郷渡御碑

 六郷橋の川崎市川崎区側には、明治天皇が東京行幸された記念碑が建てられている。

⇒ 六郷周辺 ウォーキングマップ