建長6年(1254)11月、千葉氏の重臣・富木五郎が下総二子の浦より渡航の折、鎌倉へお戻りの途次であった日蓮聖人と仏法論をたたかわし、結果帰依して師檀の約を結んだことで、「船中問答霊場」と呼ばれている。
南北朝時代初期、中山法華経寺第三世日祐上人により、真言宗の金勝寺を改め日蓮宗の六浦山上行寺となった。
日荷上人には、「称名寺の仁王尊二体を背に担ぎ、三日三晩で甲州身延山に納められた」という有名な伝説がある。
【上行寺東遺跡】
中世鎌倉における重要な外港であった六浦を見下ろせる小高い丘陵の先端部に位置する上行寺東遺跡は、昭和59年(1984)8月・12月と昭和61年(1986)7月~12月の二度にわたる発掘調査によって、鎌倉時代から室町時代初期にかけての「やぐら群」と「建物跡群」を主体として遺跡であることが明らかにされました。
発見された遺構は、上・中・下段に分かれて存在し、やぐら43基、建物群7基、井戸2基、池状遺構と思われる不定形土壙1基などで、それらとともに多量の陶磁器類、石塔類や古銭・銅製品などが出土しました。