鎌倉武将 畠山重忠終焉の地
(鶴ヶ峰)

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mark畠山重忠終焉の地(はたけやましげただしゅうえんのち)

 畠山重忠は、平安から鎌倉時代前期の武将。秩父氏(現、埼玉県秩父市)の一族で初代将軍源頼朝の挙兵後、鎌倉入りを助け、幕府の重臣となる。

【畠山重忠公碑・さかさ矢竹】

畠山重忠公碑
畠山重忠公碑
さかさ矢竹
さかさ矢竹

 元久2年(1205)に起きた畠山重忠の乱(北条氏vs畠山氏)で、畠山重忠北条時政の後妻「牧の方」と稲毛重成の謀略で鎌倉へよび戻され、秩父の館を主従134騎で出発したのが6月19日だった。鶴ヶ峰に着いたのは22日だったが、そのときすでに、二代執権北条義時は数万の兵で武蔵国二俣川(現、旭区二俣川・万騎が原)に待ち伏せしていた。だまされたと知った重忠は覚悟を決めて戦ったが、愛甲三郎李隆の射た矢が命中して首級をとられた。
 この碑は、重忠公没750年を迎えた昭和30年(1955)に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現、深谷市)の有志により建立された。

【首塚・首洗い井戸】

首塚
首塚
首洗い井戸
首洗い井戸

 首塚は、重忠公の首が祭られていたところといわれています。
 旭区役所の裏にある「首洗い井戸」の場所には、重忠の首を洗い清めたといわれる井戸がある。

【薬王寺】

薬王寺
薬王寺

 畠山重忠公は、愛甲三郎李隆の矢に当り、遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。時は元久2年(1205)6月22日、公は42歳。この地に主従一同と六ケ所に葬り代々伝えて六ツ塚という

「畠山重忠戦死の地」石碑
「畠山重忠戦死の地」石碑
畠山重忠公の地蔵尊
畠山重忠公の地蔵尊

 境内には、重忠公をはじめ一族郎党134騎を葬ったと伝えられている六つの塚が残っている。

六ツ塚
重忠公をはじめ一族郎党134騎を葬った塚

六ツ塚・霊場
六ツ塚・霊場
畠山重忠公慰霊祭
畠山重忠公慰霊祭

 毎年命日の6月22日には、地元の観光協会主催で盛大に慰霊祭が行われている。

紫陽花
紫陽花
紫陽花
紫陽花

 境内には、色鮮やかな紫陽花が咲いていた。

【駕籠塚】

駕籠塚
史跡 駕籠塚
駕籠塚
駕籠塚

 駕籠塚は、重忠が北条軍におそわれたとの知らせをうけた妻の「菊の前」は急ぎ鎌倉に向かったが、この場所にきたとき戦死と聞いて重忠のあとを追い自害した。その場所に駕籠ごと葬られたといわれ、周囲が竹で囲まれた大きな塚です。

【矢畑・越し巻き】

矢畑・越し巻き
矢畑・越し巻き
公園橋 (帷子川)
公園橋 (帷子川)

 二俣川の合戦のとき、重忠の陣に向かっていっせいに放った北条の矢が、このあたり一面につきささり、まるで矢の畑のようになったといことから「矢畑」と呼ばれている。

旭土木事務所近くの水道道
旭土木事務所近くの水道道
清来寺橋
清来寺橋

【清来寺】

鶴遊山 清来寺
鶴遊山 清来寺
山門
山門

本堂
本堂

 浄土真宗本願寺派の寺院、創建年は不明だが、もとは厚木にあって、その頃は天台宗の寺院だったが、鎌倉時代に親鸞聖人の東国布教の折に改宗されたのだという。江戸時代末期に畠山重忠の武勇を讃えるために編纂された「夏野の露」という絵巻が保存されている。

梵鐘
梵鐘
紅葉し始めた境内
紅葉し始めた境内

 境内には、鎌倉時代に伝令して使っていた鐘があったという鐘楼塚がある。

【畠山重忠公遺烈碑(万騎が原)】

畠山重忠公遺烈碑
畠山重忠公遺烈碑
畠山地蔵尊
畠山地蔵尊

 万騎が原という地名は、北条氏勢が畠山重忠の乱で、数万騎の陣を構えたことに基づくものと言われている。

道標(左戸塚道、右大山道)
道標(左戸塚道)
庚申塔
庚申塔

 道標(左戸塚道)を兼ねた庚申塔が建っている。

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