岐阜羽島市内歴史散歩

岐阜羽島駅(JR東海道新幹線)~市歴史散歩~岐阜羽島駅(JR東海道新幹線)
mark岐阜羽島(ぎふはしま)
岐阜羽島駅
岐阜羽島駅
円空誕生の地
円空誕生の地
大野伴睦夫妻の銅像
大野伴睦夫妻の銅像
円空モニュメント
円空モニュメント

 駅前には地元の大物政治家大野伴睦夫妻の銅像が立つ。
 高さ8mの円空モニュメントは、市制50周年記念事業として、羽島市円空顕彰会より寄贈を受け建設したものである。円空上人は、寛永9年(1632)羽島市上中町中に生まれ、幼き頃から出家して某寺にいたが、23才の頃出奔して流浪の旅に出たという。やがて伊吹山修験の大平寺に身をよせ、白山禅定、富士山禅定などをこころみ、12万体の仏像の彫成を発願するに至ったという。

竹ヶ鼻城跡
竹ヶ鼻城跡
竹鼻商店街
竹鼻商店街

 竹ヶ鼻城は「美濃古城史」によると、応仁年間に竹腰伊豆守が築城したとある。
 天正9年(1581)城主不破源六は、一時荒廃していた城を拡大し、城の鬼門の守護神として八剣神社を遷座し、菩提所本覚寺を創立した。天正12年(1584)5月、小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉の水攻めにあい1ヶ月後に開城した。
 最後の城主杉浦五左衛門は、織田秀信(岐阜城主)の旗下にあり、慶長5年(1600)8月、関ヶ原の戦いで東軍の攻撃を受け、自害して城は炎上し、廃城となった。
 城跡の位置は、戦前は竹鼻町1507番地、戦後は竹鼻町丸の内3丁目48番地の1となったが、これらは口承や地形、文献から推定したもので、石垣などの確証は未だ得られていない。
今回、本丸の跡と刻む石標を、この地(竹鼻町2624番地の1)へ移したのは、すぐ道をはさんでお城地蔵尊があることや、近年、城町開拓の文書資料から、この地のアタリを本丸の跡とみる新説が出され、今後の研究の進展を期待したことによる。(説明板より)

羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館
羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館
井三商店
井三商店
兎月園
兎月園
竹鼻名物 みそぎ団子
竹鼻名物 みそぎ団子

 みそぎ団子は、美濃竹鼻輪中は遠く宝暦年間に溯り豪梅雨により、洪水に続き悪疫流行を蒙ったのである。みそぎ団子は時の氏神八剣神社にてヒエ・栗のだんごをお供えし厄除けのお祈りをしたことに始まる。

お城地蔵
お城地蔵
お城地蔵
お城地蔵

 この竹鼻には今から凡そ500年前、応仁年間に竹鼻城が築かれ町の発展の基が開かれた。しかし、その反面、幾多の戦禍をうけて多くの尊い人命が失われてきた。殊に慶長5年(1600)の天下分目の関ヶ原戦では、徳川方の猛将福島らの大軍が押し寄せ、城主杉浦以下の将士は奮戦もむなしく玉砕し城は炎上して一片の灰と化したものである。
 のちに町民の有志らは、お城地蔵を建立した。すると不思議に霊験が現われ城跡辺の蓮田から一茎双蓮の花が咲いたのである。この霊験の有難さが四方に伝わり、お城地蔵は一躍有名になった。

竹鼻別院 山門
竹鼻別院 山門
山門の彫刻
山門の彫刻

 竹鼻別院の由来は嘉禎元年(1235)親鸞上人が関東からの帰途、三河の柳堂で教化された時、葉栗郡門間の庄、河野四朗通勝等九人の者が教えを受け、木瀬に草庵を結び聖人を迎えた。後世これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒のはじまりであり、この草庵が竹鼻別院の前身である。
 文明2年(1470)蓮如上人ご巡化の折り、洪水で流された草庵を再興し「河野御坊」と名付けられた。その後河野御坊は専福寺と改称されたが人災。天災などで何度も移転した。
 戦国時代、本願寺と織田信長との一向一揆(石山合戦)に、当時の住職認語が出陣し戦死した。慶長9年(1604)教如上人はその功に報い、寺を「御坊」として新加納村から田竹ヶ鼻村に移し、54ヶ寺を配下にした。

本堂
本堂

 明和8年(1771)39ヶ村の人々が協力し、50年の歳月を要し完成した本堂は、縦・横ともに14間3尺5寸の御堂であったが、明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊した。
 現在の本堂は、大正4年(1915)から大正11年(1922)にかけ、門信徒の懇念によって再建された。総欅による繊細な彫刻・優美な内陣の壮厳など、日本建築の伝統を凝集した立派な本堂である。棟梁は東本願寺の御影堂を建立した、伊藤兵左衛門である。

本堂
本堂
鐘楼
鐘楼
竹鼻別院のフジ
竹鼻別院のフジ

 野田藤であり、樹齢が300年以上の古木である。古くより「竹鼻別院のフジ」として親しまれ、多くの文人墨客が訪れている。
 4月下旬から5月上旬には、総状花序を垂れ、薄紫の蝶形の花をつける。その優艶な長い花序は晩春を飾るにふさわしく、人々の心を惹きつけてやまない。

佐吉大仏(大仏寺)
佐吉大仏(大仏寺)
佐吉翁寄進の延命地蔵
佐吉翁寄進の延命地蔵

 竹鼻大仏として親しまれている佐吉大仏は永田佐吉翁によって、宝暦9年(1759)に完成された丈六青銅制の釈迦如来坐像の通称である。高さ石の台座分を含めて4.9m、江戸の鋳造師西村和泉守藤原政時によって鋳造され、5艘の船で22の部品が運ばれ、現在の場所で一体にされた。大仏は「仏恩報謝」を目的として母の奨めにより建立された。
 佐吉翁は「勤勉」「正直」「孝行」「奉仕」「慈善」「恩返し」等、様々な徳により「美濃聖人」として称えられた。又戦前の修身の教科書にも採り上げられ日本の徳育教育の柱として全国で学ばれた。

佐吉大仏
佐吉大仏
公益(皆のために)
公益(皆のために)
道しるべ
道しるべ
佛心石
佛心石

道しるべは、安八町大森の渡船場近くに佐吉翁が立てた道しるべ。

加賀野井城跡
加賀野井城跡
加賀野井城跡
加賀野井城跡

 明らかではないが、天正年間(1571~1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり、415貫文(1万石)を領して城主となっていた。
天正10年(1582)の本能寺の変の後、豊臣秀吉と主筋織田家との間に対立が生じ、天正12年(1584)4月長久手において戦ったが、豊臣方の大敗となり、翌5月緒戦の屈辱のため一転して当城を攻撃した。
 城中には信雄の援兵二千余騎も加わり必死に防いだが、豊臣方師十万の大軍の前に抗しきれず、城の明け渡しと、助命を条件に講和を申し入れたが、秀吉は受け入れなかった。そのため、五日夜陰に乗じ大手町より打って出て、最後の決戦を試みた。
衆寡せず城兵は枕を並べて討死し、城主秀望は辛くも脱出して関東にのがれて落城するに至った。(説明板より)

円応寺
円応寺
円応寺 本堂
円応寺 本堂
境内
境内

 浄土真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来である。

ムクロジ
ムクロジ
ムクロジ
ムクロジ

 寺前にはムクロジの大木がある。ムクロジ科の落葉喬木で、葉は互生し羽状複葉で、初夏に若枝の先端に大きな円錐花序で淡緑色の五弁の花が咲き、秋には黄褐色に成熟した果皮の中に一個の種子ができる。当寺のムクロジは、目通り2.5m、根回り5.8m、樹高15mの大木で現在も樹勢盛んである。

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