此の石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。
相生松の場所は、治承4年(1180)、初代将軍源頼朝が源家再興を祈願し百日間毎暁蛭島より、三嶋大社に日参する際し、従者安達藤九朗盛長(鎌倉幕府の御家人、安達氏の祖)が此の所で警護したと伝えられる。
厳島神社は、北条政子が勧請し殊の外信仰したと伝えられる。
建築中伊豆地震にあったが、昭和6年(1931)6年3月竣工、初めて台湾檜が使用された昭和の神社建築の代表的建物の一つに数えられ、格調の高さは有名である。
矢田部盛治は、代々の神主で三島宿の教育文化の発展にも尽力された。
「三嶋大社の祭神は、事代主命と大山祇命の2神である。創建の年代は不明で もともと三宅島や大島にまつられていたが、のち、賀茂郡白浜(現、下田市)、さらに現在の場所に移ったらしい。9世紀には、大社に列せられるなど階位の上昇がめだち、10世紀には『延喜式』式内社に列せられている。中世には伊豆国一宮として武士の崇敬をうけた。源頼朝が挙兵に際して源氏再興を祈願したことは有名である。」(※)
「鎌倉時代には三代将軍源実朝から惟康親王までの歴代将軍が参詣し、南北朝時代には初代将軍足利尊氏らが戦勝祈願した。戦国時代には今川氏や北条氏との関係が重かった。近世には530石の朱印地をもち、三島が宿場町として栄えるとともに広く信仰され、明治時代に官弊大社となった。」(※)
キンモクセイはウスギモクセイの雄木として、日本有数のもので、大社の神木として大切に保存されている。樹齢は1,200年を数えると伝えられ、訪れる参詣者の目を引いている。
若宮神社は、古くは八幡宮・若宮八幡宮又は若宮社等とも呼ばれた。御祭神は物忌奈乃命(三嶋神の御子神)誉田別命(応神天皇)・神幸別命・妃大神を祀る社である。
「若山牧水の歌碑
のずゑなる 三島のまちのあげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり
芭蕉句碑
棟とは【せんだん】の事で、元禄7年(1694)5月14日三嶋明神に参詣した松尾芭蕉は、雨空に神池の辺り、せんだんの花の群を仰いで江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて読んだ句である。
どむみりと 棟や 雨の 花曇り」(※)