上野恩賜公園散歩
(上野)

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mark上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)
2018.3.12 上野恩賜公園の大寒桜youtube

 ソメイヨシノの開花に先立ち、2月下旬から3月上旬にかけて入口付近の大寒桜が咲き誇る。

上野公園
上野公園

 今、東京の真ん中で広大な緑を貯蔵し、市民に最も親しまれた行楽地とは 上野公園である。西欧の公園を見ると、日本の都市公園はなんと貧弱かと思うのだが、そうした中で、面目を保てるのは上野公園があるからである。そして幕府崩壊後、何かになるはずの寛永寺山内を、上野公園としてよみがえらせたオランダ人医師ボードワンのことは、忘れてはならないだろう。明治政府が外国人の意見を尊重し、国家形成に役立てようとした、時の運も幸いしたのである。

2017.4.4 上野恩賜公園の桜(満開)youtube

西郷隆盛銅像
西郷隆盛銅像
小松宮彰仁親王銅像
小松宮彰仁親王銅像

 西郷隆盛は、薩摩国鹿児島城下に、貧しい下級藩主西郷吉兵衛の長男として生まれた。16歳で郡奉行のもとで、郡方書役助となった。開国・富国強兵を目指し、幕府を倒し、新政府で改革事業を推進した。
 隆盛は、盟友・大久保利通とともに明治維新を成功に導いた立役者で、江戸城無血開城させたことはあまりに有名。明治新政府でも陸軍大将として重責を担っていたが、明治6年(1873)、朝鮮侵略を巡る征韓論争で派兵と遺使交渉を主張し、反対する大久保たちと決裂して辞表を提出。下野(民間に下ること)して鹿児島に戻り、私学校で士族子弟の教育にあたった。最大規模の土族反乱にして日本最後の内戦「西南戦争」を起こす。南九州を転戦したあと、故郷の城山で自刃した。
  小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。

野口英世銅像
野口英世銅像
博士王仁碑
博士王仁碑

 野口英世は、明治9年(1976)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。31年、北里柴三郎主宰の伝染病研究助手となり、33年12月に渡米、37年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータの研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナのアクラで没した。享年53歳。野口英世銅像は総高約4.5m(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
 「古事記」などによると、王仁博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、「論語」・「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされる。また、その子孫は文筆をもって朝廷に伝えたといわれる。

PARK SIDE CAFE
PARK SIDE CAFE
上野動物園入口
上野動物園入口

大噴水
大噴水

 大噴水のある所が寛永寺根本中堂跡、国立博物館のある所が本坊跡で、かっての寛永寺の伽藍の中心であった。

旧因州池田屋敷表門
旧因州池田屋敷表門(国重要文化財)

 旧因州池田屋敷表門は、もと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現、丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。昭和29年3月、さらにここに移建て修理を加えたものである。創建年代は明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。

黒田家の江戸屋敷鬼瓦
黒田家の江戸屋敷鬼瓦
説明版
説明版

 筑前福岡藩主黒田家の屋敷(現在の千代田区霞が関、外務省の地)の建物の棟飾りとして用いられていたものである。鬼瓦といっても鬼面にはなっていない。複雑な雲文の鰭までを一体に造った大振りなものとなっており、屋根を重厚にする江戸趣味をよくあらわしている。

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