「日御碕神社は上世以来社殿の御造営20数回、皆勅使命又し将軍の祈願に依ったもので、之にても日御碕神社の御神威の一端がうかがわれるのである。現在の社殿は日没宮、神の宮共に徳川三代将軍徳川家光公の命により、幕府直轄工事として江戸より工匠を特派し、着工以来10年の歳月をかけ、寛永21年(1644)竣工し、310年の星霜を経ている。 」(※)
「御祭神 天照大御神。
『出雲国風土記』に「美佐伎社」とある古社である。日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約1千年前)に勅命によって、現社地に御還座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞嗚尊の御子神天葺根命(あめのふきねのみこと)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれの神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん。汝速に吾を祀れ。』と天照大神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斉き祀り給うたと言う。」(※)
御製の御歌
秋の果ての碕の浜の みやしろに をろがみ祈る 世のたひらぎを
昭和天皇には、くにびき国体に行幸のみぎり当神社に御親拝遊ばれました。御製はその折の大御心をお詠み下されたものである。
「日御碕神社附近海岸の経島は、往昔日御碕神社『日沈宮』御鎮座の霊域として、毎年8月7日、夕日の祭典のため神職が渡島する外は、古来何人も登るを許されぬ島である。全島悉状節理をした石英角班岩の階層から成り、恰も万巻の経文を積み重ねた模様で一に「お経島」とも云う。更に又「ウミネコ」の産卵、繁殖地として全国的に著名である。」(※)
日御碕灯台は、明治32年(1899)ら浜田、境の両港が開港場に指定され、外国貿易が盛んになってきたことから大型沿岸灯台設置の必要性が高まり、明治33年から3カ年をかけて大工事の末に完成した。この工事には、島根県八束郡森山から硬質の石材を切り出し、境港から海路54海里を運搬し、灯塔用材に使われた。