景勝地「秋谷の立石」で知られる立石バス停で下車する。ここから長者ヶ崎へ向う西海岸通りは快適な歩きであった。
国道134号から約500m海上に突き出た馬の背の様な奇岩が露出した岬が、長者ヶ崎と呼ばれてる。三浦半島の中央丘陵部の尾根が、相模湾の海上に向かって、大きく崩れ出したように突き出ているために、こうした地形が生まれた。
長者ヶ崎を通り過ぎて間もなく県立葉山公園に着き、ここで小休憩をとる。公園の北側には葉山御用邸があるので、警備の方が周囲を見守っていた。葉山公園はかつて葉山御用邸の馬場であった部分が、昭和21年(1946)に神奈川県に払い下げられ、以来県立葉山公園として一般開放された。園の前面は海浜融で、夏は海水浴客のための海の家が軒を連ねる。
葉山御用邸付属邸跡地である葉山しおさい公園には、葉山しおさい博物館や日本庭園、茶室・休憩施設、黒松林などがある。中でも、池と景庵のある日本庭園はおもむきがあり美しい。
社殿前には、「一年安鯛みくじ」「恋し鯛みくじ」の珍しいおみくじがある。
「森戸神社は、葉山町一帯の総鎮守として、土地の人たちからは、明神さまと呼ばれ親しまれている。縁起によれば、初代将軍源頼朝が治承4年(1180)に、流刑地の蛭ヶ小島で源氏再興を祈願し、守護神としてあがめた三島明神(現在の静岡県・三嶋大社)を山王の社地に勧請し、森戸大明神としたことが始まりという。 」(※)
海岸の砂浜に下りる所に石原裕次郎の記念碑が建っており、兄慎太郎氏自筆の詩が刻まれている。
冬の季節には、美しい富士山が見られるので訪れ人も多い。
名島(菜島)左側の葉山灯台(裕次郎灯台)は、日本外洋帆走協会の会長を務めた、兄の石原慎太郎氏が基金を募り平成元年(1989)に建設された。
森戸海岸が際立つのは、晴れた日の夕刻。西の方角に日を向けると、伊豆や箱根の山並みが薄ぼんやりと望まれ、やがて日が沈み始めると、山並みを包み込むようにして空が赤く染まり、それが海に照らし出される。
源頼朝公がこの地に別邸を建て、笠懸を催したり、三代将軍源実朝や四代将軍藤原頼経なども来遊した記録が「吾妻鏡」に残されている。
高橋是清の歌碑「堪忍の 股よりのぞけ 富士の山」
頼朝公が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した時、岩上の松を見て「如何にも珍しき松よ」とほめたところ、出迎えの初代侍所別当和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松とよび候」と答えたという由来がある。
神社裏手の階段を昇ると飛柏槇が見られる。飛柏槇は、樹齢八百年余、元歴元年(1184)頼朝公が当社を参拝の折り、三島神社から種子が飛来し発芽したと伝えられ当社の御神木になっている。
写真右側の大きな木が飛柏槇である。
総霊社は、霊、祖霊を始め水子の霊など、この社には多くの霊がまつられている。
畜霊社は、かって、多くの家畜が疫病にかかった時、この社にはお願いすると病から免れることが出来ると云われ、以来家畜(ペット)の守護神として篤い信仰を集めている。
庚申塔は、庚申の信仰は、中国の道教の思想に基づくもので、江戸時代に盛んになり講中の人たちが庚申塔を建立した。
水天宮は、「まいられよ 子宝の福 さづかりに」と石碑に刻んである通り、古くから子宝を求める人等の篤い信仰を受けている。
みそぎ橋は、『吾妻鏡』によると、森戸の海岸は鎌倉時代に霊所と定められ、事あるごとに、お祓いやみそぎが行われたことが記されている。
冬の季節、三浦半島の海岸から眺める富士山が美しい。
夏の逗子海水浴場は、花火大会などのイベントも多く大勢の人で賑わう。
冬の季節は、雪を被った美しい富士山が見られる。
逗子海岸は多くの人がウインドサーフィンを楽しんでいた。
平成17年(2005)には、石原慎太郎氏の「太陽の季節の碑」が設置された。
4月上旬、9月上旬には、逗子海岸から綺麗な「ダイヤモンド富士」が見られる。